神の国

テーブルトーク誌2021年11月号では、神の国について概説します。イエスの教えの中心的テーマである神の国は、忠実なクリスチャンの生活と証しにとってきわめて重要なトピックです。しかし、神の国に関しては多くの誤解があります。キリスト教の歴史において、神の国はさまざまな定義がなされてきました。十字軍の暴力を通してであれ、社会的活動を通してであれ、神の国の到来を世俗の権威に期待するクリスチャンがいました。神の国を今ある現実として過度に強調する教会もあれば、完全に未来のものとみなす教会もありました。読者がこのような混乱の中を切り抜ける助けとなるよう、本号では、神の国に関する聖書の教えを考察します。神の国とは、神に喜んで従う民を、神がご自身の選ばれた王を通して、特定の領域において神が支配することです。私たちの創造主は万物を主権的に支配しておられます。しかし神の国とはそれ以上に、地上での働きを通して、キリスト・イエスにおいてすでに到来しており、イエスが再臨される時に完全に現れる御国のことを指します。

 

 
2024年01月22日(木)

神の国とは何か?

神の国とは何なのでしょうか。答えは簡潔に述べることができます。神の国とは、被造物すべてに対する神の最高かつ至上の君臨と統治(主権的支配)です。しかし、聖書の教えるすべてに照らして、包括的に答えることもできます。
2024年01月24日(木)

神の国と聖書

キリストとキリストの使徒や預言者たちは、聖書のすべての箇所が、聖書の他の箇所の使信と一致あるいは調和していると教えました。聖書全体が、整合性の取れた体系的信仰、すなわち統一された物語からくる、神に信実なしもべが従うべき唯一の生き方、一つの真の信仰を明らかにしています。
2024年01月29日(木)

神の国の王

古代において一国の王は公共事業を監督し、戦争において軍の先頭に立ち、国内の正義を執行し、これらすべての取り組みにおいて知恵を普及させました。王は王国の理想を体現する者、国民を完璧に象徴する者であり、多くの場合、国民の父と呼ばれました。
2024年01月31日(木)

神の国の領域

どんな王でもその権威は王国の国境までしか及びません。この原則をキリストの御国に当てはめると、信仰と見えるものとの間に緊張関係が生じます。聖書は、地とそこにあるすべてのもの、すべての人は主のものであるとたからかに述べます(詩篇24:1)。
2024年02月05日(木)

神の国を所有する

かつて教父ヒエロニムスジェロームは「キリストの預言者であるダニエルほど、キリストについて明確に語った預言者はいない」と断言しました。しかし、現代の福音派の人々はこれに同意しないでしょう。ダニエル書の後半で語られる黙示的幻は不明瞭のようですし、預言を現代の出来事に当てはめようとする多々の誤用は、ダニエル書のメッセージを明らかにすることに寄与しません。
2024年02月08日(木)

神の国の拡大

マルコの福音書4書においてマルコは種が鍵となる、神の国についてのたとえを三つまとめます。1−9節でイエスは種を蒔く人、種、種が蒔かれた地について語られます。13−20節でイエスはこのたとえを解き明かし、26−29節でイエスは種を使った別のたとえを語られます。
2024年02月13日(木)

神の国を自らに強いる

何かが本当に、本当に、究極的に良いと知っているとき、しばしば2つの反応を見受けます。ある人はひねくれもので、それが良いものだと知っていながら、他の人がそれを楽しむのを妨げようとします。子どもが兄弟の大切なおもちゃを壊して楽しみを台無しにするように、暴力が伴うこともあります
2024年02月15日(木)

あなたがたのただ中に

公生涯の初めから、イエスは「神の国の福音」を宣べ伝えられました(ルカ4:43)。「神の国の福音」が極めて重要であることは、「神の国」がルカの福音書だけで31回も出てくることからもわかります。しかし、「神の国の福音」とは何なのでしょうか。
2024年02月20日(木)

この世のものではない国

十字軍、異教徒の抑圧、国家転覆、教育、そして世俗的な社会正義の概念などが神の国の建設の手段として用いられてきましたが、いずれも虚しいものでした。誤った行動は誤った概念から発しますが、イエスはご自身の支配が地の上に現れるのはまず魂の上に現れてからだと明らかにされました。
2024年02月22日(木)

聖霊による義と平和と喜び

パウロ書簡の中で、パウロは王国を意味する言葉を14回しか使いません。これらの箇所の多くは神の国を将来において体験する現実として言い表しています。パウロはローマ人への手紙14章17節においてのみ神の国を現在の現実として言い表しています。「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」
2024年02月27日(木)

神の国は、ことばではなく力にある

2021年の夏、世界は東京に釘付けでした。多くの人が夏季オリンピックに目を向けていたのです。このような大会は国を背負うプライドだけではなく、報道が加熱する何年も前から注がれている努力の報いでもあります。金メダルを勝ち取るために、途方もない逆境に打ち勝ってきた選手の物語が、これまでにいくつも語られてきました。
2024年02月29日(木)

記憶に残らない人

あなたはテキコを知っていますか。新約聖書を読んだことがあれば、テキコの名前を目にしたことがあるでしょう。しかし、おそらくテキコの名を読んで、特に気にすることなく先に読み進んだのではないでしょうか。
2024年03月05日(木)

贖われた民の感謝の歌

詩篇107篇は神に贖われた民として、どれほど感謝すべきことがあるかを歌っています。私たちは真実な神によって深い悲劇から救われた民なのです。この詩篇が探る悲劇の深みの表面しかここでは見ることはできません。しかしこの詩篇は四つの鮮明な絵を私たちに与えます。これらの絵はたとえ話のように用いられており、神の民がどれほどの深みに自ら嵌っていったかをあらわします。
2024年03月05日(木)

贖われた民の感謝の歌

神のご性質について、人が疑いを持つべきようなところは一つもありません(申命32:3-4)。にもかかわらず、エバが園で神の意図に疑問を抱いて以来、人は神の言葉や動機を疑ってきました。不信仰とは、神は不義だとか無能だといった、間違った前提をもとにしています。そして摂理に不平を言ったり、神が約束を果たすのを「手助け」したり、神を信じる前に証拠を求めたり、神からの独立を主張したりすることで現されることがあります(創世16:1-6, 18:10-14; マタイ16:1, 4)。完全なお方に対する私たちの疑念は、私たちの不完全さと、神に関する知識の欠陥を明らかにしています。
2024年03月12日(木)

乳離れした神の子ら

ダビデ王が詩篇131篇で告白したのは自分が「及びもつかない大きなことや奇しいことに足を踏み入れない」ことでした(1節)。王である者の口から出る言葉としては不思議に思われるかもしれません。王こそ国のために大きなことに目を留め、分析し聡明な決断をするべきではないのでしょうか。詩篇131篇を読み進めていくと、もう一つ疑問に思うかもしれません。
2024年03月15日(木)

絶望と闘う

アラスカ州ケナイ半島にある小さな漁村、ホープ(希望)村への道すがら、アンカレッジの南、セワードハイウェイのどこかで私の友人が道に迷いました。ガソリンスタンドにいた老人に「ホープに辿り着くにはどうしたら?」と聞くと、老人はニコリと笑って「(望みを得るには)教会に行って祈るといい」と、何度も繰り返したであろうそのセリフを、まるでオスカー俳優かのように口にしたのでした。
2024年03月21日(木)

見える教会における奉仕の働き

教会について考えるときに有益な神学的な区別の一つに、教会の見える性質と見えない性質があります。これは一つである教会は神と私たち、二つの視点から捉えることができる、という意味です。神の視点から見ると教会は選民と同一です。教会はキリストに贖われ、聖霊によって新生され、神との生きた交わりに生きる民です。これが「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)です。