絶望と闘う
2024年03月15日(木)
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2024年03月15日(木)

見える教会における奉仕の働き

編集者注:これはテーブルトーク誌の「神の国」というシリーズの第十七章の記事です。

教会について考えるときに有益な神学的な区別の一つに、教会の見える性質と見えない性質があります。これは一つである教会は神と私たち、二つの視点から捉えることができる、という意味です。神の視点から見ると教会は選民と同一です。教会はキリストに贖われ、聖霊によって新生され、神との生きた交わりに生きる民です。これが「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)です。しかしながら私たちには教会で隣に座っている人のこころを見ることができないので、その人がこの見えない現実の一員であるかどうか判断することはできないのです。私たちの視点から見ると、「見える教会は…全世界にわたって、真の宗教を告白するすべての者と、その子らとから成る」(ウェストミンスター信仰告白25章2条)。しかしイエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」(マタイ7:21)と警告されました。すなわち私たちが見聞きすることが現実と一致するとは限らないのです。

この見える・見えないの区別は重要です。なぜなら聖書的だからです。ユダは十二弟子の一員でしたし、アナニヤとサッピラはエルサレムの教会の一員でしたし、三人ともイスラエルの民の一員でした。しかしパウロは「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」(ローマ9:6)と記しました。また、この区別は聖書が教会について明示していることを捉えているから重要です。教会はすでに聖いのです(一コリ1:2)。なぜなら見えない教会、選民はキリストとの結合によって選り分けられているからです。見える教会における偽りの信仰告白はそれを変えることができないし、変える力もないのです。

最後に、この区別が重要なのは、教会が奉仕の働きをすることについて注意深く考えることを私たちに要求するからです。私たちの目的は見える教会がますます見えない教会を反映することです。すなわちキリストを知っていると告白している人が本当にキリストを知るようになってほしいのです。聖潔を保ち、偽りの告白者が本当の回心者になるのを見届けるには教会はどうしたら良いのでしょうか。

キリストを宣べ伝える

この目的を果たすためにもっとも重要な働きは、キリストとキリストの十字架を明確に語ることです。キリスト者には福音が必要だということを忘れてはいけません。福音は教会に入るためだけに必要だとか、死に際だけに信じれば良い、というものではありません。福音はキリスト者の生涯の初めから終わりまで、すべての領域において必要不可欠なのです。信仰と悔い改めは一度限りの行為ではありません。継続して行うことです。私たちはいつでも罪から離れ、イエス・キリストの恵みを受けるために神に戻らなくてはなりません。神のあわれみは日々新しく、毎日その憐れみについて聞く必要があるのです。

私たちの目的は見える教会がますます見えない教会を反映することです。

福音がキリスト者に必要不可欠であるなら、「この世にあって望みもなく、神もない」(エペソ2:12)不信者にはなおさら必要不可欠でしょう。教会の宣教は、すべての魂が救い主に出会うこの切実な必要を反映しなくてはなりません。どの教会も目標をすでに得たと思ってはなりませんし(ピリピ3:12)、福音を必要としているのは教会の外の人たちだけだと思ってはなりません。福音の宣教は路傍、リバイバル、カンファレンス、特別集会だけのものではありません。福音の宣教は日曜日のものでもあります。なぜなら集った人すべてが必要としているからです。教会の重鎮の人が神の恵みにより今週初めて信じるかもしれないのです。

戒規を執行する

見える教会が信者と不信者の集まりであるという現実は罪を犯した兄弟を獲得するため、また「かたまり全体を感染させるあのパン種を一掃するため」(ウェストミンスター信仰告白30章3条)に教会戒規が必要であることを裏付けます。教会の指導者たちは教会の聖さを保つことで、群れを守り、キリストのきよい御名を広めるのです。イエスも、悔い改めのない教会の一員について、「教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(マタイ18:17)と言われました。教会戒規を真剣に取り扱わない牧師や長老は見える教会と見えない教会の間の溝を深めてしまう大きな危険があります。

栄光を待ち望む

神の民の中の罪の存在には失望させられますが、見える教会と見えない教会の区別は、教会には目に見える以上のものがあることを肯定することによって、かえって希望を注入します。個人の聖化に関するジョン・ニュートンの言葉は、教会にも当てはまるでしょう。「私は、自分があるべき者ではなく、自分がなりたい者でもなく、来る世でそうあるようにと望んでいる者でもない。しかし、それでも私はかつての私ではなく、神の恵みによって今の私であるのだ。」

地上の教会は工事用の足場によってその美しさがはっきりと見えない建物のようだと言われることがあります。確かに足場は建物を見えにくくしますが、それは一時的なことです。目に見える教会は、間もなく現される、素晴らしい回復に必要なすべての要素を、内住される聖霊によって内に秘めています(ローマ8:23)。それゆえ、私たちには宣教に励むあらゆる理由があります。そして「いかなる罪や挫折も神の民を打ち負かすことはできない」という希望に満ちた確信をもって宣教に励むことができるのです。

教会が栄光へ突き進んでいるということは、目に見える教会がすべての人にとって必要な場所であることを意味しています。それゆえ私たちは、教会の外にいる人々を熱心に歓迎し、教会の内にいる人々を積極的に励ますのです。神が私たちを受け入れてくださるように、キリストへの信仰を告白するすべての人を受け入れ、疑いや偏見を捨て、神の家族として接します。同時に、私たちの集会には確かに不信者がいるかもしれないということを認識し、すべての働きが福音に満ちているようにします。私たちは目に見える教会として、教会を建てあげると約束したキリストを信じ、御霊に頼ることによって、人々が目に見えない教会の一員となることを積極的に促すのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジョナサン・ランドリー・クルーズ
ジョナサン・ランドリー・クルーズ
ジョナサン・ランドリー・クルーズはミシガン州カラマズーにあるCommunity Presbyterian Churchの牧師であり、妻と子供たちと共に暮らしている。50曲以上の賛美歌の作者であり、著書にHymns of Devotion、The Christian's True Identity、The Character of Christなどがある。