リゴニアのブログ

賜物に満ちた牧師や聖書学の教師による、聖書的、神学的、実践的テーマに関する示唆に富む記事を掲載し、クリスチャンの信仰の成長を励まします。


 


2024年03月21日(木)

見える教会における奉仕の働き

教会について考えるときに有益な神学的な区別の一つに、教会の見える性質と見えない性質があります。これは一つである教会は神と私たち、二つの視点から捉えることができる、という意味です。神の視点から見ると教会は選民と同一です。教会はキリストに贖われ、聖霊によって新生され、神との生きた交わりに生きる民です。これが「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)です。
2024年03月15日(木)

絶望と闘う

アラスカ州ケナイ半島にある小さな漁村、ホープ(希望)村への道すがら、アンカレッジの南、セワードハイウェイのどこかで私の友人が道に迷いました。ガソリンスタンドにいた老人に「ホープに辿り着くにはどうしたら?」と聞くと、老人はニコリと笑って「(望みを得るには)教会に行って祈るといい」と、何度も繰り返したであろうそのセリフを、まるでオスカー俳優かのように口にしたのでした。
2024年03月12日(木)

乳離れした神の子ら

ダビデ王が詩篇131篇で告白したのは自分が「及びもつかない大きなことや奇しいことに足を踏み入れない」ことでした(1節)。王である者の口から出る言葉としては不思議に思われるかもしれません。王こそ国のために大きなことに目を留め、分析し聡明な決断をするべきではないのでしょうか。詩篇131篇を読み進めていくと、もう一つ疑問に思うかもしれません。
2024年03月05日(木)

贖われた民の感謝の歌

神のご性質について、人が疑いを持つべきようなところは一つもありません(申命32:3-4)。にもかかわらず、エバが園で神の意図に疑問を抱いて以来、人は神の言葉や動機を疑ってきました。不信仰とは、神は不義だとか無能だといった、間違った前提をもとにしています。そして摂理に不平を言ったり、神が約束を果たすのを「手助け」したり、神を信じる前に証拠を求めたり、神からの独立を主張したりすることで現されることがあります(創世16:1-6, 18:10-14; マタイ16:1, 4)。完全なお方に対する私たちの疑念は、私たちの不完全さと、神に関する知識の欠陥を明らかにしています。
2024年03月05日(木)

贖われた民の感謝の歌

詩篇107篇は神に贖われた民として、どれほど感謝すべきことがあるかを歌っています。私たちは真実な神によって深い悲劇から救われた民なのです。この詩篇が探る悲劇の深みの表面しかここでは見ることはできません。しかしこの詩篇は四つの鮮明な絵を私たちに与えます。これらの絵はたとえ話のように用いられており、神の民がどれほどの深みに自ら嵌っていったかをあらわします。
2024年02月29日(木)

記憶に残らない人

あなたはテキコを知っていますか。新約聖書を読んだことがあれば、テキコの名前を目にしたことがあるでしょう。しかし、おそらくテキコの名を読んで、特に気にすることなく先に読み進んだのではないでしょうか。
2024年02月27日(木)

神の国は、ことばではなく力にある

2021年の夏、世界は東京に釘付けでした。多くの人が夏季オリンピックに目を向けていたのです。このような大会は国を背負うプライドだけではなく、報道が加熱する何年も前から注がれている努力の報いでもあります。金メダルを勝ち取るために、途方もない逆境に打ち勝ってきた選手の物語が、これまでにいくつも語られてきました。
2024年02月22日(木)

聖霊による義と平和と喜び

パウロ書簡の中で、パウロは王国を意味する言葉を14回しか使いません。これらの箇所の多くは神の国を将来において体験する現実として言い表しています。パウロはローマ人への手紙14章17節においてのみ神の国を現在の現実として言い表しています。「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」
2024年02月20日(木)

この世のものではない国

十字軍、異教徒の抑圧、国家転覆、教育、そして世俗的な社会正義の概念などが神の国の建設の手段として用いられてきましたが、いずれも虚しいものでした。誤った行動は誤った概念から発しますが、イエスはご自身の支配が地の上に現れるのはまず魂の上に現れてからだと明らかにされました。