神の国の王
2024年01月29日(木)
神の国を所有する
2024年02月05日(木)
神の国の王
2024年01月29日(木)
神の国を所有する
2024年02月05日(木)

神の国の領域

編集者注:これはテーブルトーク誌の「神の国」というシリーズの第四章の記事です。

どんな王でもその権威は王国の国境までしか及びません。この原則をキリストの御国に当てはめると、信仰と見えるものとの間に緊張関係が生じます。聖書は、地とそこにあるすべてのもの、すべての人は主のものであるとたからかに述べます(詩篇24:1)。しかし世は神の統治に敵対しており、神と神の主権的支配から独立しようと決意しています(詩篇2:3)。しかしこの反逆をよそに、神はシオンの聖なる丘に油注がれた王を確立すると宣言されます(6節)。キリストはご自身と私たちの敵を制圧し、征服し、私たちを従わせ、治め、守ります(ウェストミンスター小教理問答26)。キリストによる仲介的支配への信仰はキリストの御国の民にとって慰めとなります。キリストは教会をその主権的かしらとして霊的に治めておられますが、聖書はそれを超えたキリストの王権が現れることを予期しています(エペソ1:22; コロサイ1:18)。

聖書はしばしば、キリストの支配を地理的な言葉で表現します。キリストの支配は海から海まで、地の果てにまで至ります(詩篇72:8)。ゼカリヤは主が全地の王となる日を見据えています(14:9)。ダニエルは世界のすべての王国が打ち砕かれ永遠に滅ぼされることのない王国に取って代わられる時を指し示します(2:44)。この地理的な包括性は、神が新しい天と新しい地を創造し、罪によって呪われた古い被造世界に代わって、完全な義によって特徴づけられるエデンのような新しい世界が創造される、その永遠の状態において成就されると見るのが最善です(イザヤ65:17; 二ペテロ3:13; 黙示21:1)。この未来の王国の最大の特徴は民の只中に民の王がおられるということでしょう(ぜカリヤ2:5, 10-11)。教会は敵対的環境の中にありますが、この世のすべての王国(支配)が滅び、神の国が勝利を得るという祝福に満ちた希望を持っています。今は教会は戦いの最中にあります。いつか教会は勝利を得て、王の御前で、平和と義がある、実在する場所を占めるようになるのです。

この神の国の神学にとって示唆的なのは、旧約聖書を通して約束の地に向けられた関心です。旧約聖書の神学の多くは、イスラエルによるこの地の征服、継承、追放、奪還に関係しています。土地という最初の約束は、神とアブラハムとの契約に不可欠な要素でした。神はアブラハムに、ユーフラテス川からエジプトの川までという、地理的座標上にある土地を約束されたのです(創世12:7; 15:18-17:8)。主はアブラハムに、彼の子孫がその土地を永遠に所有することを保証されましたが、アブラハムが所有したのはせいぜい洞窟にすぎず、所有と言っても象徴的なものにすぎませんでした(創世13:17; 23)。アブラハムは、土地の約束には単なる土以上のものがあることを知っていました。彼の最大の関心事は、より良い天の御国であったからです(ヘブル11:16)。ある意味、アブラハムの経験は教会の経験することと同じです。アブラハムが「すでに」所有している土地は、来たるべき「いまだ」実現していない現実と同じではなかったのです。このようにして、この「土地の神学」は、神の国についての教訓的実例なのです。

第一に、この土地は約束されたものでした。この約束は確実なものでしたが、アブラハムにとってもアブラハムの子孫にとっても現実のものとなっていない約束の地理的側面がありました。400年もの間、アブラハムの子孫は異邦の地で被支配者であり、古の約束を享受するなど夢物語のようでした。しかし神は約束を更新し(出エジ6:8; 13:5, 11)、イスラエルは約束を受け継ぐための第一歩を踏み出しました。彼らは父祖アブラハムのように、約束の成就を目にすることなく、約束を信じたのです。エジプトを出た世代はヨルダン川を越えることがありませんでした。今日の教会にも同じことが言えます。柔和な者は地を受け継ぐということを(マタイ5:5)、またアブラハムの霊的子孫が世を受け継ぐことを(ローマ4:13)私たちは信仰によって知っています。これは私たちの「すでに」の経験からは想像し難いですが、確かに神の約束されたことなのです。確実に言えるのは、キリストはご自身のために場所を用意してくださった、ということです(ヨハネ14:2; ヘブル6:19-20)。

第二に、この土地は豊かでした。主は約束の地について、広く、良い、乳と蜜の流れる地(出エジ3:8)だと言われました。これはこの地が与える豊かさを表す比喩です。約束の地の豊かさは贖われた者たちの受け継ぐ祝福を鮮やかに描く方法でした。神に贖われた民の一人であるということは、霊的に豊かな場所にいるということです。パウロ的に言えば、神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してしてくださっているのです(エペソ1:3)。クリスチャンにとって「乳と蜜」の地は、天上を意味するのです。

第三に、この土地は人がいる地でした。神がイスラエルに与えると約束された土地は、彼らがエジプトの奴隷となっていた間、何の人間活動もない、あるいは人が住んでいない土地ではありませんでした。主は、その地にはイスラエルよりも偉大で強大な国民が住んでいると言われました(申命7:1)。この民の存在は、信仰上の問題であると同時に、神への信仰に対する潜在的な脅威でもありました。主はこの脅威に対して、先住民とその土地に共生することや、神に背いて罪を犯させるような契約を彼らと結ばないように警告されました(出エジ23:32-33)。むしろ、イスラエルにはそれらの異邦の民の偶像を「徹底的に破壊し」、「粉々に打ち砕く」(24節)ことが求められました。イスラエルはこの警告に従わなかった結果、この地から追い出されてしまったのです。

信仰に対する脅威も同じく実際の問題でした。土着のカナン人は歴戦の強者でしたが、イスラエルは戦いの経験もなく弱い者でした。ですから約束の地をどう手に入れるかは喫緊の課題でした。約束の地が神から与えられた贈り物であるのは良いものの、その地を実際に所有するのはまた別のことのように思われたのです。土着のカナン人が自発的に去るとは考えられません。イスラエルは自分の故地を保持するためには戦う必要がありました。しかしイスラエルがその戦いに勝つ見込みは高くありません。主がイスラエルに土地を征服するために教えられたプロセスはキリスト者が罪の支配に打ち勝つ上での重要な霊的教訓を示しています。

カナン人と戦う術は二要素ありました。神がイスラエルのために戦い、イスラエルは自ら戦う必要がありました。主ご自身が敵を絶ち、滅ぼし、退却させる、と主はイスラエルに約束されました(出エジ23:23, 27)。主はイスラエルが従うべき使いを彼らの前に遣わし、これを成し遂げられると約束されました(20節、23節)。先陣を切る使いに加えて、主へのおそれとスズメバチをイスラエルの前に遣わし、カナン人を追い払うと約束されました(27-28節)。これらはどちらも恐れを生じさせるものを指す比喩表現です。

地とは神の民の究極的な目的地に加え、そこへ向かう日々の旅路の両方を指すのです。

カナンの征服は神と民との協働を表します。神は、イスラエル人が約束を受け継ぐにあたって障害であったカナン人を追い払い、地を与える、という約束によって勝利を保証し、達成されました。それでもなお、イスラエルはヨルダン川を越え、命を賭して自ら敵を追い払う必要がありました(申命9:3)。イスラエルは、神が勝利を約束されていることを信じ、約束の地へと入り、確実なる勝利という光に照らされて戦ったのです。イスラエルは、神の命令に従い、剣を取って戦うことでしか約束の地を所有できなかったのです。土地を所有するための戦いは苛烈かつ絶え間なく、新しい領土は少しずつ征服されていったのです。

地の征服はキリスト者の罪との戦い、すなわち漸進的聖化の過程を示しています。キリストは私たちの罪に勝利し、罪の支配を滅ぼしてくださいました。ですが、私たちが救われたからといって、罪が私たちから逃げていくわけではないのです。もし、私たちが自分の力で罪と闘おうとするなら、私たちの敗北は確実です。罪は私たちよりも強いからです。また、神の武具を身に付けて罪と闘おうとしないなら、同じように私たちの敗北は確実です。しかし、神が約束し、キリストが勝ち取ったすべてを信じて戦いに望むなら、私たちは勝利を味わうことができます。ですが、たとえ特定の罪に対する勝利を経験したとしても、私たちは罪と誘惑のカナン人に満ちた世界に生きているのですから、決して油断してはなりません。一つの勝利は、次の戦いの入り口なのです。戦いは、今私たちが経験する王国の現実を示している。

第四に、この土地は神の臨在があるところでした。モーセが海で歌った賛美には神がご自身の民に与えると約束された土地についての言及があります。「あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に」(出エジ15:17)。特別な、霊的な意味において、約束の地にいることは、主がおられるところにいること、すなわち主の臨在の中にいる、ということでした。主はモーセに、主の臨在がモーセと共にその地に行き、安息を与えてくださると恵み深く保証されした(出エジ33:14)。「安息」という考えは、約束の地と神の臨在と同義になったのです(詩篇132:13-14)。安息とは、主がおられる場所であり、主の臨在を示すものです。この意味で、約束の地は、神の栄光の臨在の場所であり、キリスト者の永遠の住まいである神の天の御国、すべてのキリスト者が経験する最後の安息を指し示しています(一ペテロ1:4)。また別の意味では、神がご自身の民と会われる礼拝の場で信仰者が享受する安息に類似しています。礼拝の場は、神の国、約束の地の現れです。

約束の地は、神の国の神学に深く関わっています。どちらも実在する場所です。約束の地は、神が贖われた民のあいだにおられ、民を守り、民を養ってくださることを象徴しています。最終的には、この地は神の普遍的で永遠の御国、すなわち神の臨在と、その結果としての平和の究極的な体験の予型(情景的な預言)です。地とは神の民の究極的な目的地に加え、そこへ向かう日々の旅路の両方を指すのです。安息の地に入ることは、キリスト者の最終目的地です。神の国は到来しつつあります。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

マイケル・P・V・バレット
マイケル・P・V・バレット
マイケル・P・V・バレット博士は、ミシガン州グランドラピッズにあるPuritan Reformed Theological Seminaryの教学担当副学長、学部長、旧約聖書学の教授を務めている。著書に『Beginning with Moses: A Guide to Finding Christ in the Old Testament』『Wisdom for Life: 52 Old Testament Meditations』などがある。