神の国と聖書
2024年01月24日(木)
神の国の領域
2024年01月31日(木)
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神の国の王

編集者注:これはテーブルトーク誌の「神の国」というシリーズの第三章の記事です。

古代において一国の王は公共事業を監督し、戦争において軍の先頭に立ち、国内の正義を執行し、これらすべての取り組みにおいて知恵を普及させました。王は王国の理想を体現する者、国民を完璧に象徴する者であり、多くの場合、国民の父と呼ばれました。これは国王と国民が政治や統治だけでなく、より深い関係で結ばれていたことを示唆します。国王と国民がこのように結ばれていることは、良い時は人間の繁栄のための輝かしい可能性に満ち、悪い時には人間に苦しみをもたらす恐ろしい可能性を秘めるものでした。

神の「救いの計画」における王

初めから、人類は王を必要とする存在です。なぜなら人類は神の王国の民として造られたからです。人類を治める王がいることは、神が私たちをimago Dei、つまり神のかたちとして造られた時から、地のちりから人をかたちづくられ、神が治めるこの地上が神のかたちで満ちるようにされた時から、神が意図されたことなのです。創世記一章において大地は物理的な宮殿として描かれており、いつの日か、神であり創造主なる王のかたちとして造られた人間という王の代理が満ち治めるところとして描かれています。王としてのアイデンティティは、最も根本的な次元において、私たち人間のアイデンティティに影響を与えます。堕落という完全なる失敗とそれに続く破壊を踏まえてもなお、人類は、地上が神の栄光で満たされるという幻(ビジョン)を見据えるように召されており、贖われた「神のかたち」である私たちは神の王権が「天でなされるように」この地上においても発動されるように(マタイ6:10; イザヤ6:3参照)祈るように召されています。イエスもその日を待ち望んでおられるこそ、私たちにこう祈るように言われたのです。

人類の堕落の後、神は贖いのみわざの一環として、地上のすべての家族の中から、王の家系が生まれる家族を指名されました。神はアブラハムに、彼を大いなる土地に住む大いなる国民にすると約束されただけでなく、「王たちが、あなたから出てくる」(創世17:6)と約束されました。この約束は、旧約聖書の族長時代に描かれた贖いの希望には、アブラハムの家系から人間の王が出るという希望も含まれていたことを示しています。

この希望はモーセ契約においてより具体的になっていきます。モーセ契約では、将来の王が主に信実であることを奨励するための規則や制約が記されています(申命17:14-20)。このような箇所が、イスラエルにおいて実際に王が戴冠される前に書かれたのは不思議なことではありません。モーセの教えの多くは、イスラエルの民にまだ与えられていない祝福を前提としているのです。まだ約束の地のはずれ、モアブの草原に立っている時に、イスラエルの希望がどこまで及ぶか—神が神殿を与えてくださること、約束の地に住むための条件、神権政治国家の体制について、イスラエルを治めるべき王の条件—が申命記には事細かに記されているのです。

ヨシュア記からサムエル記第二までの歴史書は、イスラエルがこの希望をどう握りながら歩んだのかが記されています。ですから、王権というテーマが新たな契約で再び取り扱われることも不思議ではありません。今度はダビデ王の血筋に王位が永遠に確立されます(二サム7章)。アブラハムやモーセ同様ダビデも、何年も何年も先に成就する約束を与えられたのです。

旧約聖書の一貫した使信(メッセージ)はこうです。「王である神ははじめから変わらず、『神が任命した人間の王の統治の元に全人類が統べられ、この王が正義と繁栄に満ちた支配のもとに地上を治める』ことを意図しておられる」。悲劇的なことに、旧約聖書の幕が閉じても、ダビデの血筋から適切な候補者は出てきません。しかし、新約聖書の幕が開くと、イエスが真の王として、神のすべての救済の約束の正当な継承者として現れます。実際、神の約束はすべて、キリストにあって「然り」であり、キリストの王権によってキリストと結ばれた者にとっては「アーメン」なのです(二コリ1:20)。

キリストが約束された王国

キリストは、人類が待ち望んでいた王が自分であることを示されました。キリストだけが、神との契約において求められた条件をすべて満たす唯一の者だからです。そのためキリストが「最後のアダム」(一コリ15:45; ローマ5:12-21; 一コリ15:22参照)であり、真のイスラエル(マタイ2:15; ヨハネ15:1-17)であり、メシア的ダビデの子(マタイ1:1; 9:27; 20:30)であり、それぞれの契約における役割を果たし、約束されたものを受け継がれるお方です。

キリスト以前に現れた契約のかしらと異なり、キリストは、神と一つ、という特別な立場から、ご自身の民のために契約を履行してくださいます。使徒たちはキリストの全宇宙的権威を一言で言い表すのに苦労しました。キリストは「神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)であり、「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いるお方(コロサイ2:9)であり、「すべての支配、権威、権力、主権の上」におられるお方(エペソ1:21)です。このように、キリストの契約は、それ以前のすべての契約に勝るだけでなく、単なる影に過ぎなかったそれ以前のすべての契約が指し示していた現実なのです(ローマ5:14; コロサイ2:7; ヘブル8:5, 9:23-24, 10:1)。旧約聖書においてキリストの王権を予表したものは何であれ、誰であれ、今や期待、影、予型の立場に下げられています。それらはキリストを指し示し、ついにキリストのうちにその意義が見出されるのです。

神の国はイエスの地上における働きのテーマであり枠組みを与えてくれます。イエスは御国を証することから始め(マタイ4:17; マルコ1:15)、ご自身が去った後も御国について宣べ伝え続けるように使徒たちに命じられました(マタイ28:16-20)。ウェストミンスター小教理問答によれば、キリストは「私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいて」王職を果たされるのです(問答26)。神の民に数えられる者は神が自分たちの上に立てられた王を相応しく尊び、正しい敬虔さをもって従います。私たちは血統や善い行いなど、他の手段で救われたと主張することはできません。王なるキリストの主権を受け入れなければならないのです。イエスの時代の律法学者やパリサイ人の多くがイエスの教えを拒否したのは、彼らがある種の立法主義に立っていたからではありますが、イエスのような人物を信じるということに心が閉ざされていたからでもありましょう。旧約聖書に出てくる、多くの反逆同様、神が定められた権威を拒絶することは神ご自身への反逆です(民数16; ヨハネ8:19)。キリストの王権を否定するなら、モーセの律法やダビデへの約束を受け入れても無駄なのです。イエスが「もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです」(ヨハネ14:7 新改訳第三版)と警告される通りです。

王である神ははじめから変わらず、『神が任命した人間の王の統治の元に全人類が統べられ、この王が正義と繁栄に満ちた支配のもとに地上を治める』ことを意図しておられます。

今日に至るまで、キリストは全能の父なる神の右の御手からすべてを支配しておられます(使徒5:31; コロサイ3:1)。それゆえ、キリストの教会は、過去の聖人を契約のかしらとして仰ぐのではなく、また、前の世代の地上の遺物を仰ぐのでもなく、生きておられる王イエスを私たちの第一の、そして最高の権威として仰ぐのです。

キリストが内住される王国

普遍的教会に属するキリスト者は、父と子と聖霊の間の親しい交わりにあずかる者であり、、キリストにあって互いに親しく一つに結ばれています。この霊的な交わりによって、キリスト者は個人としても共同体としても、かつて自分たちを支配していた罪の堕落から自由になることができ、また、キリストのからだとして、地上における神の生きた聖所として、キリストの王国の担い手として、互いに結ばれているのです(マタイ16:19)。キリストは御国のこの側面を、裏切られる直前に祈った祈りにおいて開始されました。

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」(ヨハネ17:20-23)

キリストは確かにご自分の教会を導き、教会は、使徒たちが「キリストの霊」と示唆に満ちてよんだ聖霊(ローマ8:9; 一ペテロ1:11)によって、キリストと一つとされています。御霊はキリスト者の新生に働かれるだけではなく、キリスト者がキリストの王国の民として生きるための日毎の糧なのです。キリストの王権は双方向の作用があります。キリストは真に人間であるので、キリストの王権は神と神の民との間にふさわしい関係を構築します。また、キリストは真に神であるので、キリストの王権はご自身の民と神との間にふさわしい関係を構築するのです。キリストのゆえに、私たちは神と結ばれ、その結合がもたらすすべての祝福を享受することができるのです。

教会の性質と働きは、キリストにあって確立され、キリストの御霊によって活かされ、キリストの王国の目的に向けられます。私たちがキリストのうちにいるように、キリストも私たちのうちにおられます。キリストは、私たちの伝統の中にある聖人や神の預言者以上の存在です。キリストは、聖書の語る希望を成就するお方なのです。私たちの心は、聖化における御霊の働きによって、王なるキリストの心に似せられ、キリストとの霊的な結びつきのゆえに、私たちはキリストの王国が完全に到来することを切望するのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

スコット・レッド
スコット・レッド
スコット・レッド博士は、ワシントンD.C.にあるReformed Bible Collegeの学長兼旧約学のスティーブン・B・エルマー教授。著書にThe Wholeness Imperative。