リゴニアのブログ

賜物に満ちた牧師や聖書学の教師による、聖書的、神学的、実践的テーマに関する示唆に富む記事を掲載し、クリスチャンの信仰の成長を励まします。


 


2024年06月27日(木)

マルティン・ルターについて知っておくべき五つのこと

1. マルティン・ルターは成人してからおよそ3週間ごとに詩篇を読み返した Sola Scriptura(ソラ・スクリプトゥラ)。このラテン語は、「聖書のみ」という意味です。これは、教理、教会における実践、そしてクリスチャン生活において、聖書のみが最終的な権威であることを意味します。宗教改革の初期、ルターはこの主張のために戦いました。
2024年06月27日(木)

聖化について知っておくべき五つのこと

聖化の簡潔な定義をお探しなら、おそらくウェストミンスター小教理問答にある定義にまさるものはないでしょう。問35の答えに、ウェストミンスターの神学者たちはこう記しています。「聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです」 これは聖化の漸進的な性質の正確な定義ですが、聖書は、聖化の他の重要な側面も示しています。
2024年06月26日(木)

ジャン・カルヴァンについて知っておくべき五つのこと

1. ジャン・カルヴァンは自身の教会・宣教・家庭から追い出された ジュネーヴでの宣教の働きを初めてから2年も経たないうちに、当時29歳のジャン・カルヴァン(1509-64)は、2日前にジュネーヴを去るようにとの通告を受け、教会からも宣教からも家庭からも追い出されました。
2024年03月21日(木)

見える教会における奉仕の働き

教会について考えるときに有益な神学的な区別の一つに、教会の見える性質と見えない性質があります。これは一つである教会は神と私たち、二つの視点から捉えることができる、という意味です。神の視点から見ると教会は選民と同一です。教会はキリストに贖われ、聖霊によって新生され、神との生きた交わりに生きる民です。これが「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)です。
2024年03月15日(木)

絶望と闘う

アラスカ州ケナイ半島にある小さな漁村、ホープ(希望)村への道すがら、アンカレッジの南、セワードハイウェイのどこかで私の友人が道に迷いました。ガソリンスタンドにいた老人に「ホープに辿り着くにはどうしたら?」と聞くと、老人はニコリと笑って「(望みを得るには)教会に行って祈るといい」と、何度も繰り返したであろうそのセリフを、まるでオスカー俳優かのように口にしたのでした。
2024年03月12日(木)

乳離れした神の子ら

ダビデ王が詩篇131篇で告白したのは自分が「及びもつかない大きなことや奇しいことに足を踏み入れない」ことでした(1節)。王である者の口から出る言葉としては不思議に思われるかもしれません。王こそ国のために大きなことに目を留め、分析し聡明な決断をするべきではないのでしょうか。詩篇131篇を読み進めていくと、もう一つ疑問に思うかもしれません。
2024年03月05日(木)

贖われた民の感謝の歌

神のご性質について、人が疑いを持つべきようなところは一つもありません(申命32:3-4)。にもかかわらず、エバが園で神の意図に疑問を抱いて以来、人は神の言葉や動機を疑ってきました。不信仰とは、神は不義だとか無能だといった、間違った前提をもとにしています。そして摂理に不平を言ったり、神が約束を果たすのを「手助け」したり、神を信じる前に証拠を求めたり、神からの独立を主張したりすることで現されることがあります(創世16:1-6, 18:10-14; マタイ16:1, 4)。完全なお方に対する私たちの疑念は、私たちの不完全さと、神に関する知識の欠陥を明らかにしています。
2024年03月05日(木)

贖われた民の感謝の歌

詩篇107篇は神に贖われた民として、どれほど感謝すべきことがあるかを歌っています。私たちは真実な神によって深い悲劇から救われた民なのです。この詩篇が探る悲劇の深みの表面しかここでは見ることはできません。しかしこの詩篇は四つの鮮明な絵を私たちに与えます。これらの絵はたとえ話のように用いられており、神の民がどれほどの深みに自ら嵌っていったかをあらわします。
2024年02月29日(木)

記憶に残らない人

あなたはテキコを知っていますか。新約聖書を読んだことがあれば、テキコの名前を目にしたことがあるでしょう。しかし、おそらくテキコの名を読んで、特に気にすることなく先に読み進んだのではないでしょうか。