魂の獲得者は賢明である
2025年04月10日(木)
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天における報い

編集者注:これはテーブルトーク誌のキリスト教とリベラリズム(自由主義神学)というシリーズの第十七章の記事です。

スターバックス、マリオットホテル、サウスウエスト航空、ドミノ・ピザ……。あらゆる企業が、何らかの報酬システムを取り入れているようです。食べたり、飲んだり、旅行したり、宿泊したりするほど、ポイントを多く稼げるという仕組みです。報酬システムが理にかなっているのは、これが世の中の仕組みを反映しているからです。私たちは働けば、賃金を受け取ります。私たちが成果を上げれば、賞賛や特典が与えられるようになっているのです。ですから、新約聖書の著者たちが、神の国での天における報いについて語るとき、私たちは彼らが何について語っているのか、はっきりと理解できると思ってしまいます。クリスチャンとして一生懸命に働けば、神からの祝福が得られると思いがちです。しかし、それは違います。聖書の報いに関する教えは、神が私たちの期待や思い込みをひっくり返される一つの方法です。

たとえこの理由だけでも、私たちは、天における報いについて聖書が何を言っているか(そして何を言っていないか)を注意深く考える必要があります。この聖書の教えについて、5つの点から考えることができるでしょう。第一に、この世でのクリスチャンとしての従順と奉仕に結びついた天における報いというものがあります。山上の説教におけるイエスの教えには、天における報いに関する言及が溢れています(マタイ5:12, 46; 6:1, 2, 4, 5, 6, 16, 18)。報いはキリストを信じ従う人々にのみ与えられ、信じない人には与えられません。これらの報いは、現在ではなく、クリスチャンがこの世を去った後に、将来与えられるものです(16:27参照)。報いは、私たちがこの人生で行う良い行いに関係しており、「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人にいっぱいの冷たい水でも飲ませる」こと(10:42)といった、小さくて取るに足りない行為も含まれます。

使徒たちも同様に、クリスチャン生活における報いの事実と重要性を強調しています。パウロは牧師や長老たちに語りかけ、終わりの日には牧会の働きがふるいにかけられ、評価されるだろうと述べています。「その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます」(一コリント3:13–14)。パウロはすべてのクリスチャンに対して、こう語りかけています。「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れをしたい求めている人には、だれにでも授けてくださるのです」(二テモテ4:8 )。パウロは「奴隷」たちに、キリストに忠実に従って生きるよう勧めています。それは彼らが「主から報いとして御国を受け継ぐ」ことを知っているからです(コロサイ3:22, 24 )。

第二に、天における報いには違いがあり、あるクリスチャンは他のクリスチャンより多く、または少なく報いを受けます。イエスは、ミナ[訳注:当時の通貨単位。1ミナは当時の約100日分の労賃に相当]のたとえ話の中でこの点を強調しておられます(ルカ19:11–27 )。このたとえ話では、王はしもべたちにそれぞれ1ミナを与えます。しばらくすると、しもべたちはそれぞれ王の前に出て、そのミナで何をしたかを説明します。最初のしもべは1ミナで10ミナを稼ぎ、二番目のしもべは1ミナで5ミナを稼ぎました。王は最初のしもべに「十の町を支配する」権威を、二番目のしもべに「五つの町を支配する」権威を報酬として与えます。天における報いには、不平等があります。他の人よりも多くを得る人がいるのです。しかし、もし報いが不平等に与えられるのであれば、それは無作為に割り当てられたものではありません。天における報いは、地上での従順に比例します(しかし決して従順に基づくものではありません)。10ミナを稼いだしもべは10の町を支配する権威を受け、5ミナを稼いだしもべは5つの町を治める権威を受けます。ここで、投資に対して受けた報酬は、獲得したものをはるかに上回っています。その意味で、地上での従順の功績によってその報酬を得たのではないことがわかります。報いは、そのような功積的な意味での従順に基づくものではありません。

第三に、すべてのクリスチャンは、キリストから転嫁される義という、完全に同じ根拠のみに基づいて義とされます。聖書は、「義人はいない。一人もいない」、「罪の報酬は死です」と教えています(ローマ3:10; 6:23 )。人間は、いのちと天国を得るどころか、死と地獄を得ました。私たちは生まれながらにして、アダムの最初の罪(私たち自身のすべての罪に加えて)を犯しています。したがって、私たちはこの世に罪を負い、さばきを受けるに値する者として生まれてくるのです。罪人の希望は、自分自身にはありません。キリストにあります。パウロがローマ人への手紙第5章12-21節で示しているように、キリストは第二のアダムであり、アダムの子孫ですがアダム「にあって」ではありません。キリストは完全に義であり、従順であり、その功績のゆえにいのちを受けるに値するお方です。十字架において、イエスは人々の罪に対する罰を完全に支払われました。キリストの従順と死は、キリストを信じるすべての罪人に「賜物」として与えられる「義」です(17節)。その義は、罪人が信じる瞬間にその人に対して認められるのです(19節)。キリストの義のみに基づいて、罪人は義と認められます(4:4–5)。義認は信仰を通して行われますが、信仰に基づいて行われるわけではありません。そして、その信仰さえも、それを受けるに値しない罪人への神の無償の賜物なのです(エペソ2:8 )。したがって、すべてのクリスチャンは、天国へのまったく同じ資格、すなわち信仰のみによって認められ、受けられる、キリストの功績を持っているのです。誰も、神の前で誇る権利はありません。私たちが誇るのは、主だけです(一コリント1:29, 31)。

第四に、義認と天における報いは、互いに矛盾したり緊張関係にあるものではありません。一見すると、両者は対立しているように見えるかもしれません。義認はキリストの御業のみに基づいていますが、天における報いは私たちの働きに結びついています。また、義認はすべての信じる罪人にまったく同じものを与えますが、天における報いは、それぞれのクリスチャンを目に見えて異なるものにします。しかしよく調べてみると、この二つの聖書の教えには、矛盾も緊張もありません。まず第一に、ただキリストの功績によってのみ、罪人は天国に入ることができるということをここで再確認します。私たちが栄光の中にいるとき、そこにいられる唯一の権利は、キリストがその生涯と死をもって私たちのためにしてくださったことによるのです。私たちは、地上で最後の息を引き取るまで、「神様、罪人の私をあわれんでください」という取税人の祈りを祈り続けます(ルカ18:13)。次に、神が与えてくださる報いは、恵みの賜物です。イエスのミナのたとえ話はこの現実を証明しています。与えられた報酬は、王のしもべたちの功績とはまったく釣り合いが取れていません——わずか10ミナで10の町が与えられたのですから。私たちは決して、天における報いに値する者でも、それを功績で得る者でもありません。

では、義認と天における報いをどのように結び付けることができるでしょうか。義認は罪人に永遠のいのちの資格を無償で与えます(ローマ5:17)。永遠のいのちとは何でしょうか?それは、キリストにあって神を知ること(ヨハネ17:3)であり、私たちの神としてそのお方の御前に住まうこと(黙示録21:3)です。報いは、天国のクリスチャンたちが等しくそのいのちを経験するのではないという事実を捉えています。ある人は他の人よりも、より満ち満ちた、より大きないのちを楽しむでしょう。神学者たちは、器や入れ物のたとえを巧みに用いてこのことを説明してきました。すべてのクリスチャンは空の器であり、その器は天国で満たされます。誰も不足や不満を感じることはありません。しかし、天国にいるクリスチャンはそれぞれ大きさの異なる器を持ち、その大きさは、地上でいかに従順であったかに比例します。ある器は470ミリリットル、別の器は4.5リットル、さらに別の器は180リットル入るといった具合です。そして、天国は完全な愛の世界であり、愛はねたみません(一コリント13:4)ので、私たちは自分たちよりも「大きな器」である兄弟姉妹のことをただ喜びます。どの器も満たされ、ある人は他の人よりも天におけるいのちを多く享受しながらも、誰もねたんだり不平を言ったりしません。

第五に、天における報いは、地上でのクリスチャン生活において重要な役割を果たします。聖書は、天における報いが実際的な目的のために存在することを明らかにしています。その一つとして、天における報いは、私たちが今ここで神に従う動機となるはずです。重要なのは、イエスが、世が取るに足らないと見なす行為や(マタイ10:42; コロサイ3:24と比較)、今の人生で抵抗や迫害を受けた従順に対して(マタイ5:11–12)、神は喜んで報いを与えると語っておられることです。イエスは、クリスチャン生活の大部分を占める小さなことや困難なことを行うように、私たちに動機を与えておられます。報いは、すべてのクリスチャンが追求しなければならない聖化ときよい生活を追求するよう、私たちを励まします(ヘブル12:14)。報いはクリスチャンの最も深い願い、すなわちイエス・キリストを通して神を知りたいという願いに訴えかけます。特に、この地上でのつかの間の人生が困難で惨めなときに、報いは私たちに天国の現実と祝福を示してくれるのです。

しかし、報いがクリスチャンにもたらす最も重要なことの一つは、私たちに神のご性質を思い起こさせることです。サタンの最初の嘘に、神は善ではなく、私たちの真の善と幸せを神は望んでおられない、というものがあります(創世記3:1–7参照)。聖書は、神についての真実を私たちに何度も思い起こさせます。神は善であり、神のなさることは善いのです(詩篇119:68)。私たちの人生の記録に対して神が与えるべきは、罪に定められることと死だけです。しかし父なる神は、永遠の憐れみによって、私たちを御子と結び合わせてくださいました。キリストは私たちの記録を引き受け、代価を支払ってくださいました。そして神は、私たちにキリストの記録を与え、それに値するいのちを与えてくださいました(二コリント5:21)。私たちの義認は、神の善良さと恵みを証しします。さらに、神はキリストにあって、私たちの不完全で罪に染まった従順を喜んで受け入れてくださいます。神が与えてくださる報いは、私たちの行いとあまりにも釣り合いが取れないので、それが神の恵みの報いであることは明らかです。神は、ご自身が当然受けるに値する従順を私たちが示すことを望んでおられます。ですから、この人生で神に仕えるよう私たちを動機づけ、励ますために、これらの報いを与えてくださるのです。私たちの聖化は、神の善良さと恵みを証しします。

私はこれからも企業の報酬プログラムに参加するでしょう。自分が買ったものや行ったことに対して、特典がついてくるのが好きだからです。しかし、神の国と永遠のいのちがそのように機能しないことに、私はとても感謝しています。キリストの功績だけを信頼し、神が地上で私に無償で与えてくださったいのちを栄光のうちに楽しむために、今ますます努力すること——このような「報酬」プログラムは、神にしか組み立てることのできないものでしょう。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ガイ・プレンティス・ウォーターズ
ガイ・プレンティス・ウォーターズ
ガイ・プレンティス・ウォーターズ博士は、ミシシッピ州ジャクソンにあるReformed Theological Seminaryのジェームズ・M・ベアード・ジュニア新約聖書学教授であり、アメリカ長老教会の教職長老。著書に『How Jesus Runs the Church』『The Life and Theology of Paul』などがある。