
家庭での弟子訓練
2026年01月28日(木)なぜ主の聖餐が恵みの手段であるのか
編集者注:これはテーブルトーク誌の「クリスチャンの成長のための基本」というシリーズの第五章の記事です。
近年、教会が「福音中心」であることを勧める書籍や学びのリソースが爆発的に増えています。「福音中心の親」になること、「福音中心の説教」をすること、「福音中心の共同体」であることに、私たちは召されています。これらはすべて良いことです。しかし、教会はどのようにして、十字架——主イエスの贖いの死——をその働きの中心に掲げ続けることができるのでしょうか。感謝なことに、この問題に関して牧師たちが頭を抱えたり、今までにない革新的なアイディアを捻り出そうとする必要はありません。主イエスご自身が、明確な指針を残しておられるからです。
イエスが捕らえられ、十字架刑に向かう前に、イエスは弟子たちとともに最後の食卓に着かれました。そのとき、イエスは「パンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい』」(ルカ22:19)。「わたしを覚えて、これを行いなさい」——主の聖餐、すなわちパンとぶどう酒の簡素な食事は、救い主の死を覚えて祝う教会の礼拝に欠かすことのできない要素です。
ここに、私たちは主の聖餐の祝福を一つ見ることができます。それは、イエスのからだが裂かれたのは私たちのからだが決して裂かれないためであり、イエスの血が流されたのは私たちの血が流されないためであることを、私たちに思い起こさせるという祝福です。死ののろいがイエスの上に下り、その結果、いのちの祝福が神の民に与えられました。つまり、主の聖餐を祝うことは、ゴルゴダのただ一度限りのいけにえに何かを付け加えたり、それを繰り返すためのものでは決してありません。「完了した」というイエスの叫びは時代を超えて鳴り響き、主の聖餐の中で宣言されているのです。イエスの血はすでに流され、再び流される必要はありません。いけにえは、すでに完全に献げられたのです。
このようにして、主の聖餐はある意味で「目に見えることば(visible word)」と捉えることができます。このことばは、聖書からは知り得ない新しい知らせをもたらすものではありません。むしろ、同じ福音を、私たちの目と手と唇と口を通して、象徴的な表現で私たちに語りかけます。私がこの文章を書いている今、ちょうど二歳の娘が公園から帰ってきて、トコトコと私の書斎に入ってきました。私は娘に「愛しているよ」と言うことができます。それから娘を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめて、頬にキスをすることもできます。このように抱きしめてキスをすることは、私の「愛しているよ」という言葉に何を付け加えるでしょうか? ある意味では、何の新しい情報も付け加えていません。しかし、私が伝えた言葉をより強く、確かにするのです。主の聖餐も、これと同じです。それは、神の恵みの賜物であり、十字架のメッセージを確かなものとするのです。ハイデルベルク教理問答75には、このように記されています。「主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分かち与えられるのを、眼前に見ているのと同じように確実に、主の御体が、わたしのために、十字架上で、犠牲とされ、裂かれ、御血潮が、わたしのために、流されたのだ、ということです。」
しかし、主の聖餐がいかにして恵みの手段であるのかを理解するためには、さらに語るべきことがあります。主の聖餐は、単なる視覚教材ではありません。牧師はただ前に立って、裂かれたパンと杯に入ったぶどう酒を指し示すだけではありません。そうではなく、私たちは実際にそのパンと杯を受け取り、それを食べて飲み、自分自身の身体に取り入れるのです。傍から見れば、それは私たちが簡素な食事を分かち合っているように見えるでしょう。まさしく、主の聖餐を食事として捉えるとき、教会にとってこれが恵みの手段であるもう一つの理由が見えてきます。それは、主の聖餐は霊的な食事であるということです。私たちはこの食事を通して、キリストご自身を受け取ります。私たちは、キリストとともに食事するだけでなく、キリスト「を」食すのです。
信仰者は誰もが、いわば二つの「いのち」を持っています。私たちには肉体的な身体があり、神はいつくしみによって、この身体を物理的な食べ物で強めてくださいます。おそらくあなたも、今日パンを食べ、もしかするとワインも一杯飲んだかもしれません。それらはあなたの身体を強めるものです。それとは別に、私たちには霊的ないのちがあります。私たちが信仰をもって主の聖餐に与るとき、私たちは霊的に養われているのです。パンとぶどう酒は、あくまでパンとぶどう酒のままであり、キリストのからだや血に変わるのではありませんが、パウロはこの食事を「キリストのからだにあずかる(participation)こと」と語っています。古い英語の訳では、「participation」は「communion(交わり)」とされており、そこから主の聖餐は「Holy Communion」と呼ばれるようになったのです。
ここには確かに奥義があります。しかし何らかのかたちで、聖霊の不思議な力によって、私たちが普通のパンを食べぶどう酒を飲むとき、信仰によって私たちはキリストを受け取り、キリストとの結合のうちに強められているのです。それは単に恵みを思い起こすことではなく、新たに与えられる恵みの賜物です。私たちは何も持たずに礼拝に集い——パンとぶどう酒にお金を取る教会などありません——再びキリストを受け取るのです。その前に語られたみことばを通してキリストを受け取ったのと、同じです。この理解は、私たちがどこに目を向けるべきかを静かに教えてくれます。つまり主の聖餐とは、まず第一に、私たちが主を覚えようと敬虔に努める時ではなく、キリストご自身が恵みのうちに再び私たちのもとに来てくださる時です。地上から天ではなく、天から地上というのが、その本質的な方向性です。それは、私たちに注がれるもうひとつの恵みの動きなのです。
1『改革教会信仰告白集——基本信条から現代日本の信仰告白まで』関川泰寛、袴田康裕、三好明編、2014年、教文館。267頁。
2訳注:聖書協会共同訳では「キリストの血との交わり」、「キリストの体との交わり」と訳されている(コリントの信徒への手紙一10章16節)。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

