絶望とどのように向き合うか
2026年02月25日(木)
わが子を失ったときの神の慰め
2026年03月15日(木)
絶望とどのように向き合うか
2026年02月25日(木)
わが子を失ったときの神の慰め
2026年03月15日(木)

ミニストリーで燃え尽きてしまったら

編集者注:これはテーブルトーク誌のクリスチャンのよくある悩みというシリーズの第四章の記事です。

今日、忠実な福音の働きにおいて、ミニストリーで燃え尽きてしまうこと(バーンアウト)がますます増えています。ミニストリーに敬虔に仕える牧師や教師たちが燃え尽きてしまう理由はさまざまです。ますます好戦的な姿勢を強める世の中からの敵意は、彼らの自信を失わせ、深く落ち込ませます。さらに、自らを福音派と称する人の中に、聖書を基盤とするよりも文化に合わせていくことを進んで受け入れている姿勢が見られることもまた、深い失望感を与えます。こうした霊的な戦いにともなって、気質的に非常に繊細で善意に満ちた人にとっては、対立の大小にかかわらず、それらすべてが圧倒的な負担に感じられるのです。

この短い記事の中で、私は主イエス・キリストの聖なる人性に深く影響を及ぼした悲しみと疲れという部分に焦点を当てたいと思っています。決して、キリストがミニストリーにおける燃え尽きを経験されたと言いたいのではありません。しかし聖書の中で、私たちの救い主は信仰者の原型として——すべての福音の奉仕者らが自らの模範とすべき主のしもべの姿として——示されています。このことを踏まえた上で、この記事では二つのことに注目したいと思います。一つは、私たちの罪なき主が経験された困難な、ときには圧倒されるほどのミニストリーにおける試練の現実です。これらは、しばしば見過ごされがちな部分でもあります。もう一つは、そうした困難のただ中にあって示された、イエスの揺らぐことのない姿勢です。

1. イエスはあなたを心に留め、あなたを知っておられる

まず、この驚くべきみことばを味わってください。

そして、私に言われた。      

「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、      

わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」                

しかし私は言った。

「私は無駄な骨折りをして、      

いたずらに空しく自分の力を使い果たした。」(イザヤ49:3-4)

私が教えるとき、よく学生たちにこう尋ねます。「誰がこの言葉を語ったのだと思いますか?」——そうして正しい答えが返ってきたことはありません。この言葉は、ヤハウェの忠実な罪なきしもべ、主の「栄光を現す」方が語っておられるのです。つまり、この言葉は、主イエス・キリストの口から出たものです。

この「いたずらに空しく(nothing and vanity、 ESV)」という言葉は、深く感情を揺さぶらせます。ヘブル語で「いたずらに、無意味(nothing)」はトーフー(tohu)です。創世記1章2節の「茫漠として」という表現と同じです。「空しく(vanity)」のヘブル語はへベル(hevel)です。これは「空の空。すべては空(vanity of vanities)」と、伝道者の書全体に繰り返し見られる言葉です。十字架にかけられる直前、私たちの救い主は、ご自身の宣教の働きと使命を見つめつつ、なおも罪なきまま、この働きの苦しみと個人的な苦難に耐え忍ばれました。敵意はあまりにも執拗で、弟子たちはあまりにも鈍く理解に欠けていたため、主は、まさに詩篇の作者が「私は暗闇を親しい友とし[た]」と書き記した深い悲しみをその身に負われたのです(詩篇88:18参照)。

すべてのクリスチャン、そして福音に仕えるすべての牧師や伝道者は、次のことを心に刻んでおかなければなりません。それは、私たちには、ご自分のしもべたちの悲しみや疲れを知ってくださる救い主がおられるということです。なぜなら主ご自身が、その苦しみを経験されたからです。福音の働きにおいて忠実であることには、大きな犠牲が伴います。詩篇の作者が叫ぶこの言葉を味わいましょう。

わがたましいよ

なぜ おまえはうなだれているのか。

私のうちで思い乱れているのか。」(詩篇42:5)

彼が深い淵に置かれているのは、不従順であったからではありません。主のしもべであるイエス・キリストの経験されることを、予期している(先取りするように味わっている)のです。

私の基本的な主張は、極めてシンプルです。主に忠実なしもべたちが、人生やミニストリーの大水の波に思いも心も押し流されるような深い淵に陥るとき(詩篇69:1-2参照)、彼らには、重荷と悲しみの最も深いところを歩まれた忠実な救い主がおられる、ということです。主はあなたの成り立ちを知り、あなたを心に留め、あなたが土のちりにすぎないことを知っておられます(詩篇103:14)。

2. イエスの信仰が、その行動を導いた

次に、このみことばを味わいましょう。

……それでも、私の正しい訴えはとともにあり、

私の報いは私の神とともにある。」(イザヤ49:4)

神の罪なき御子、神の忠実なしもべ、主イエス・キリストは、宣教の働きの試練や苦難の淵を経験したときもなお、ご自分の騒ぐ心や思いをヤハウェの誠実さのうちに置かれました。悲しみや苦悩に打たれながらも、神の善良と、苦しみの後に受け取る報いの約束に対する信頼は、決して揺るがされることがありませんでした。同じように、私たちにとっても、天の父なる神の善良と愛を信じる信仰は嵐を乗り越えさせ、私たちの魂を取り囲むすべてが崩れ落ちそうな中においても堅く立ちつづける力を与えます。

主の最もすぐれたしもべの中には、光が見えないように思える暗闇の中を歩むように召される者もいます。イザヤ書50章10節の、心を打つこの言葉を黙想しましょう。

あなたがたのうちでを恐れ、

主のしもべの声に聞き従うのはだれか。

闇の中を歩くのに光を持たない人は、

の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

イザヤを通して、主は私たちにはっきりと示しておられます。それは、ミニストリーにおいて燃え尽き、人生が崩れ落ちそうになり、主と教会のための奉仕をこれ以上続けることはできないような状態になるとき、神がどのような方であるかを思い起こすことこそが私たちを支える最大の助けとなる、ということです。

まさにそれこそ、私たちの救い主が究極的に経験されたことでした。カルバリの丘で、ひとり十字架にかけられ見捨てられたとき、すべての光が消え去ってしまったかのように見えても、イエスがなおも従い続け途中で退かなかったのは、神への信仰ゆえでした。その失われた状態の中で、イエスはなおも「わが神、わが神……」(詩篇22:1; マタイ27:46; マルコ15:34)と叫び、神への信仰を堅く持っておられました。闇はイエスを取り囲みましたが、その闇の中で、イエスの信仰は栄光に満ち輝いていたのです。

まとめ

ミニストリーで燃え尽きるとき、その原因となるのは、個人的な苦悩、家族の不和、教会内の緊張、国家の不安定さ、国際的な危機など、さまざまです。理由が何であれ、イエスはご自身の血で贖われ深く愛する人々すべてに、こう言っておられます。神を信じなさい——永遠の愛であなたを愛する父なる神、あなたのためにいのちを献げ、今も生きてあなたのためにとりなしておられる子なる神、そしてあなたのうちに住み、あなたを助ける聖霊を信じなさい(エレミヤ31:3; ローマ8:26; ヘブル7:25)。神を信じ、その信仰を堅く持ち続けましょう。私たちの救い主も、そうされました。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

イアン・ハミルトン
イアン・ハミルトン
イアン・ハミルトン博士は、英国ニューカッスルにあるWestminster Presbyterian Theological Seminaryの学長、サウスカロライナ州グリーンヴィルにあるGreenville Presbyterian Theological Seminaryの非常勤教授、そしてBanner of Truth Trustの役員を務める。著書は多く、『Words from the Cross』『Our Heavenly Shepherd』さらにThe Lectio Continua Expository Commentaryのエペソ人への手紙の注解書を執筆している。