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神は本当に私を顧みておられるのか?

編集者注:これはテーブルトーク誌のクリスチャンのよくある悩みというシリーズの第一章の記事です。

深い絶望の底にあるとき、あるいは不安が極度に高まったとき、信仰者は——心の内においてのみであったとしても——神は本当に自分を顧みておられるのだろうかと、しばしば思い巡らします。もしあなたもそうであるなら、良い知らせがあります。

よくある疑問

まず第一に、あなたは一人ではありません。信仰者たちは歴史を通して、この問いを投げかけてきました。預言者ハバククは、不義な者たちによって踏みにじられ、虐げられている神の民の状況を見て、こう叫びました。

いつまでですか、主よ。

私が叫び求めているのに、

あなたが聞いてくださらないのは。(ハバクク1:2; 1:3, 13も参照)

詩篇の作者らもまた、神が苦難に答えておられないかのように思えるとき、なぜ主は顧みてくださらないのかという問いを胸に、「目を覚ましてください」と嘆願しました(詩篇35:23; 44:23)。神は眠ることがない方であることを彼らは知っていましたが(詩篇121:4)、彼らの苦難の中で神が何の行動も起こされないように見えたことから、本当に神は自分たちを顧みられるのだろうかと疑問を抱いたのです。

この葛藤は旧約聖書に限られたものではありません。切迫した状況の中で、弟子たちはイエスにこう叫びました。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」(マルコ4:38, 斜体は筆者による)。日常的な場面においても、信仰者はこの問いと格闘しています。マルタは多くの仕事に追われ、彼女だけがもてなしに忙しくしていることについて、イエスは何とも思わないのかと問いかけました(ルカ10:40)。時代や状況を超えて、神は私たちの苦難に対して、私たちが望むほどすぐには介入されない(あるいは初めから苦難を防ごうとされない)ことがあります。そのようなとき、どの時代の信仰者も、「神は本当に私を顧みておられるのか」と問いかけてきたのです。

驚くべき答え

第二に、神は、ご自分が顧みておられるかどうかをあなたが思い悩むとき、そのままにはされません。神は、人が考えうる最も深く根源的なかたちで、「あなたを顧みておられる」ということを明らかにしてくださいました。それは、愛する御子を遣わされたことです。ヨハネは次のように記しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。これは、キリストが、罪に病んだ世界に生きる中で生じる葛藤や痛みや恐れを完全に理解しておられ、あなたに同情できる方であるということを意味しています(ヘブル4:15)。

さらに神は、聖霊の働きを通して、今のこのときも私たちを顧みておられます。イエスが御霊を約束されたとき、その方を「もう一人の助け主」と呼び、その助け主がいつまでも私たちとともにいる、と語られました(ヨハネ14:16)。人間の友は、ときに疲れたり、他に興味が移ったりすることもあるでしょう。しかし、聖霊はいつもあなたとともにおられます。聖霊は決して休むこともなく、こっそり立ち去ることも、あなたを見捨てることもありません。これは、神があなたに与えておられる神の契約の根幹をなす、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」という約束が、具体的に現れている姿です(申命31:8, ヘブル13:5)。あなたが感情的に孤独に感じたり、見捨てられたように感じたり、神が顧みられる範囲の外にいるように感じるときでも、この約束は真実なのです。

苦難は、神が顧みる方であることを指し示す

最後に理解しておかなければならないことがあります。それは、神があなたを顧みてくださることは、あなたが苦難や葛藤から逃れられることを意味するわけではないということです。むしろ、神が顧みられるからこそ、あなたは苦難に耐えることができ、その苦難を通して成長さえもたらされるのです。これは、直感に反するように思えるかもしれません。しかし神は、苦難は私たちを滅ぼすどころか、苦難が忍耐を生み出し、品性を生み出し、希望を生み出すと語っておられます(ローマ5:3-5)。

苦難の中には、私たちの益のために働かれる父なる神からの、愛の訓練として与えられるものもあります(ヘブル12:7-11)。ですから、私たちの苦難は——それが訓練としての性質を持つものであっても——、それは神に見捨てられているしるしではなく、むしろ神が顧みてくださっているしるしなのです。

また別の苦難は、私たちにキリストのいのちにともにあずからせるものです。パウロは、大胆にもこのように宣言しています。「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、……キリストとともに共同相続人なのです」(ローマ8:17)。キリストさえも、苦しみを通して従順を学ばれました(ヘブル5:8)。私たちがキリストに似た者となるのであれば、私たちも同じ方法で学ばなけれななりません。これは重荷であるどころか、賜物です。私たちの救い主が経験されたことを、ともに味わう特権なのです。

まとめ

神が本当に自分を顧みておられるのか疑いたくなるときは、十字架に目を向けてください。そこには、神の愛が完全なかたちで示されています。これほどの犠牲を払ったのですから、神がご自身の民を見捨てることはありません——むしろ、見捨てることはできないのです。そもそも、神がご自身の民を心から顧みておられないなら、これほど大きな犠牲を払うこともなかったはずです。あなたの苦難は、神があなたへの慈しみを取り下げられたしるしとは限りません。むしろ、その苦難そのものが、神が今あなたの内に働いておられる確かな証しなのでしょう。

どうか、勇気を出してください。心に疑いが生まれ、信仰の弱さを感じるときでも、神があなたを離れることはありません。いつの日か、あなたはかつての試練を平安のうちに振り返ることでしょう。そして気付くはずです——あなたを支えていたのは、十字架にしがみつく自分の力ではなく、あなたを背負い、あなたを守り、あなたを強め、決してあなたを離れず見捨てなかった、十字架の釘で傷ついた主の御手の力であったことを。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジョシュア・A・スクワイアズ
ジョシュア・A・スクワイアズ
ジョシュア・A・スクワイアズ牧師は、サウスカロライナ州コロンビアにあるFirst Presbyterian Churchでカウンセリング担当の福牧師として務めている。