ミニストリーで燃え尽きてしまったら
2026年03月06日(木)
ミニストリーで燃え尽きてしまったら
2026年03月06日(木)

わが子を失ったときの神の慰め

編集者注:これはテーブルトーク誌のクリスチャンのよくある悩みというシリーズの第五章の記事です。

クリスチャンであるからといって、この地上での健康や富や幸福が約束されているわけではありません。堕落したこの世界に生きる私たちの悲しい現実は、誰もがみな、さまざまな喪失を経験するということです。健康、仕事、人間関係を失うこともあるでしょう。しかし最も辛いのは、愛する人を失うことです。こうした出来事に直面するとき、私たちの目には、その喪失以外のものは見えなくなってしまいます。悲しみは他のすべてを飲み込んでしまうほど心を埋め尽くし、いのちを与える聖書の真理さえ見えなくなってしまいます。

そのような悲しみを、私が身をもって経験したのは、娘レイラを、出産予定日の一週間前に死産で失ったときでした。その喪失のあまりの恐ろしさに、私は完全に囚われるようになっていきました。待ち望んでいた赤ん坊が死んでしまったこと、レイラに授乳することも、服を着せてあげることも、お世話をすることもできないこと、息子のベンは一人っ子のままであること、また不妊の苦しみに突き落とされるかもしれないこと、娘は墓に葬られたんだということ——次から次へと、私の魂の目は、恐ろしい現実からまた別の恐ろしい現実へと向けられていくばかりでした。しかし自分の喪失と、その幾重にも重なる失望に目が向いているとき、私はこの悲しみに唯一慰めをもたらすことのできる方に目を向けるのをやめてしまっていました。讃美歌作家ヘレン・レメルは、私の絶望しかけていたその状態から抜け出す道を知っていました。

目を上げて 主の御顔を見るとき

この世のものは薄れ  主の栄光かがやく

私の目をイエスに向けたとき、わが子を失ったことでさえも不思議と薄れるほどに、主の光が暗闇を照らしました。主に目を向けたら痛みを感じなくなったわけではありません。しかし、その痛みの只中に、言葉に表せないような慰めがもたらされたのです。

私を顧みてくださる救い主

娘を失った悲しみの中でイエスに目を向けた私は、深くあわれんでくださる救い主を見出しました。福音書の記述を見ると、さまざまな喪失を経験して傷ついている人々に対し、イエスがいかに優しく心注いでおられるかがわかります。その様子が最も美しく描かれている場面の一つは、ツァラアトに冒された人がイエスにきよめを懇願する場面です。マルコはこの出来事を福音書に記録しています。「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた」(マルコ1:41)。この人は、レビ記の律法(レビ13章)によれば汚れた者とされ、そのため彼は社会から見捨てられた者となり、常に他者との間に物理的な距離を置いて生きなければなりませんでした。しかし、イエスは深くあわれみ、その隔たりを越えて御手を伸ばし、彼に触れられたのです。その人にとって、他の誰かの手の温もりに触れたのはどれほど久しぶりのことだったのでしょうか。

福音書は、堕落した世界の重荷や不完全さの中に生きる人々の人生に、イエスが優しく触れてくださるエピソードを多く示しています。イエスはあわれみをもって、一人息子を失った母親(ルカ7:11-15)や、病人たち(マタイ14:14)、空腹の群衆(マタイ15:32)、目の見えない人(マタイ20:30-34)、虐げられ弱い人たち(マタイ9:35-36)に自ら近づいて行かれました。これらのエピソードを見ると、救い主は苦しむ人々に対して決して無感情な方ではなく、深くあわれみ「手を伸ばして」くださる方であることがわかります。

涙を流される救い主

「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)——おそらく、聖書の中で最も短いこの一節ほど、イエスの優しい心を表す箇所は他にないでしょう。友であるラザロが死んで、喪に服す家に着いたときに流されたイエスの涙は、演出のためのような綺麗な一筋の涙ではありません。それは嘆きの涙でした。まもなくラザロを死からよみがえらせることを知っておられたにもかかわらず、イエスはなお、深い悲しみと怒りという感情を抱いておられたのです。

レイラを死産で失った後、私は今までに経験したことのないほど泣き続けました。しかし、そのような中でも私を慰めたのは、私の救い主もまた、この死を前にして涙を流してくださっているという事実でした。ジャン・カルヴァンは、この箇所について注解書でこう述べています。「キリストは、私たちの苦しみをご自身がともに味わったかのように、その苦難に深く心を動かされる。」[訳注:日本語訳は訳者による。] あなたの喪失においても、そして私の喪失においても、私たちの主イエスはその悲しみを喜ばれる方ではありません。人となられた「ことば」であられる主は、その胸に悲しみを抱き、頬に涙を流されるのです。

勝利してくださる救い主

深い喪失の中にあるとき、イエスが私たちを顧み、涙を流してくださる方であると知ることは大きな慰めとなります。しかし、それだけでは十分ではありません。イエスが私たちの苦しみや悲しみに寄り添ってくださったとしても、最終的に主がそれらに打ち勝つことができなければ何の意味があるでしょうか。イエスが勝利者でなければ、究極的には、慰め主でもあられません。痛みの中にあるとき、私たちに必要なのは単に同情してくださる方ではなく、救い主なのです。

イエスは私たちの痛みに絆創膏を貼るために来られたのではありません。むしろ、イエスは私たちのあらゆる苦しみの根源——つまり、罪——を取り扱ってくださいました。「キリストは自ら十字架の上で、/私たちの罪をその身に負われ」ました(一ペテロ2:24)。それは、堕落によってもたらされた呪いを覆すためでした。罪がすべてのものにその醜い「しみ」を付ける前、喪失というものは存在しませんでした。涙も、落胆も、不完全さも、死もありませんでした。ラザロを死からいのちへと呼び戻されたとき、イエスはご自身がこの世に来られた目的を示されました。「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼ」すためです(ヘブル2:14)。キリストは死に打ち勝ち、三日目によみがえられました。それによって、やがて来る世界に対する新しい希望を私たちに与えられたのです。そこでは、すべての悲しみと嘆きは逃げ去り、もはや死も喪失もありません。

慰めてくださる救い主

レイラが母胎の中で死んでいたと知ったとき、私は飲み込まれてしまうような深い悲しみに陥りました。しかし、イエスに——私を顧み、涙を流し、世の罪に勝利してくださる救い主に——目を向けたとき、私は慰めを覚えました。その慰めは、生きるにも死ぬにも、私の唯一の慰めでした。目を上げて主の御顔を見たとき、私の喪失は薄れ、主の栄光が輝いたのです。

心弱り悩み 闇を歩く時

救い主を仰ぐ 命あたえられ


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジャッキー・ギブソン
ジャッキー・ギブソン
ジャッキー・ギブソンは、夫ジョナサンとともにフィラデルフィアの Westminster Theological Seminary で仕えている。4人の子どもたちの母。著書に『You Are Still a Mother: Hope for Women Grieving a Still Birth or Miscarriage』がある。