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2026年05月12日(木)死におけるクリスチャンの慰めとは?
神のことばは、死について、人間が神に反逆したことに対する恐ろしい結果として描いています。私たちの始祖が罪に堕落する前から、創造主はアダムに、神の聖なる律法に背く結果は死であることをはっきりと警告しておられました。「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世2:17)。では、アダムとエバは神の律法を破った後、どのような死を経験したのでしょうか?
アダムとエバ、そして二人を騙した蛇に神がさばきを宣告された後——そしてアダムの最初の罪ゆえに全被造物の秩序に対するのろいを告げられた後——神はエデンの園から「人を追放し」ました(創世3:24)。それは、人がいのちの木からも取って食べ、「永遠に生きることがないように」するためでした(創世3:22)。被造物であるアダムとエバには肉体的な死が宣告され、ただちに、彼らにいのちを与える創造主の臨在から不自然に引き離されるというかたちでそれが適用されました。不自然な断絶が常にそうであるように、この断絶も当然、彼らに深く刺さるとげとなりました。
死にはとげがあります。そのとげは、罪のために神から引き離されていることです。しかし、福音の中には慰めがあります。救いの良い知らせとは、さばきを宣告し大地をのろわれた神ご自身が、キリストのうちに癒しを備えてくださったということです。キリストは神のひとり子であり、死をもたらした欺く者の頭を打つ、約束された女の子孫です(創世3:15)。使徒パウロはこのように書いています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(一コリ15:56-57)。キリストは神と人とを和解させる偉大な方であり(コロサイ1:20-22)、罪と死に対する偉大な勝利者でもあられます。
死の中にあってさえ、大きな慰めがあるのです。しかしそれは、キリストを離れては決して得られません。死について思い巡らすとき、特に、死が目の前に差し迫るとき、聖書は私たちクリスチャンに与えられている慰めに三つの側面があることを力強く示しています。
1. キリストは死を支配される方である
第一に、キリストは死を支配される方です。イザヤは、万民を覆う息苦しいベールのようなものとして死を描き、このように預言しています。
[万軍の主は]この山の上で、
万民の上をおおうベールを、
万国の上にかぶさる覆いを取り除[く](イザヤ25:7)
しかし、キリストは死にまさる方です。
永久に死を呑み込まれる。
神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、
全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。
主がそう語られたのだ。(イザヤ25:8)
これは、神の確かなことばであり、神による宣言です。神は死を無力化するだけでなく、死そのものを永久に呑み込んでくださるのです。これは、次の側面に繋がります。
2. キリストは、人が神から遠く離れた危機状態を解決された
第二に、キリストは十字架で自ら血を流しいけにえとなることで、ご自分の民の非難されるところを取り除かれました。ヘブル人への手紙には、このように記されています。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(ヘブル9:27-28)
キリストは、神から遠く離れてしまったという人類の危機を解決されました。さらに、キリストは神の義なる怒りを満たし、私たちの罪を御血によって洗い流してくださっただけでなく、十字架において「ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)。キリストはご自身の血によって私たちを買い取り、私たちの罪に対する罰を負ってくださいました。それは、私たちを神ご自身の尊い大切な所有物として、神の御前に立たせるためです。私たちはもはや自分自身のものではありません。そして、決して死の力の下にある者でもないのです。私たちはキリストにあって神のものです。
3. 私たちはキリストにあって守られている
第三に、私たちは神の力によって暗闇(と死)の支配から神のまばゆい光(といのち)の中に移されました。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:13-14)。そして何も——肉体的な死でさえも——私たちをイエスの御手から奪い去ることはできません。イエスはこう言われました。
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(ヨハネ10:27-29)
いのちにあっても、死を通るときでさえも、私たちはキリストにあって守られているのです。
まとめ
死はあまりに神秘に満ちています。そのため、私たちがやがて永遠へと移るときに何を経験するのかについて、今は曖昧で不確かなイメージしか持てず、不安を覚えることがあります。ある作家は、次のような心に迫る思いを記しました。「死という大いなる神秘が、人生における数々の小さな神秘を飲み込んでしまう様は、なんと謎に満ちたことか! 読者よ、我々はそのわずかな時間に、すべての神秘に触れるだろう。そして大いなる啓示が、そのすぐ後に訪れるのだ。御座の輝く光の中で——」 しかしクリスチャンにとって、死の後に私たちを待っているのは、いのちを与えてくださる神の臨在における永遠の祝福であるという慰めの約束が与えられています。この方の右には、「楽しみが……とこしえにあります」(詩篇16:11)。
1B. M. Palmer, The Broken Home; or Lessons in Sorrow (New Orleans: E. S. Upton, 1890), 13-14. 日本語訳は訳者による。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

