
どうすれば信仰は成長するか
2026年01月20日(木)
なぜ主の聖餐が恵みの手段であるのか
2026年02月04日(木)家庭での弟子訓練
編集者注:これはテーブルトーク誌の「クリスチャンの成長のための基本」というシリーズの第四章の記事です。
弟子訓練について語る聖書の中で、大宣教命令(Great Commission)ほど重要な箇所はありません。この命令、または戒めは、弟子たちに与えられ(マタイ28:16)、彼らが弟子をつくるようにと命じています(マタイ28:19-20)。その方法を、イエスは示しておられます。それはキリスト教信仰のバプテスマと、聖書の教えです。親が子どもを懲らしめるために何かを行う前に、まずキリストが示された弟子をつくるための計画に注目することが大切です。キリストの示される懲らしめこそが、私たちの家庭の特徴であるべきです。子どもたちの懲らしめについては、私たちがよく思い浮かべるような箇所が多々ありますが(箴言13:24; 19:18; 22:15; 23:13-14; 29:15-17)、親に求められていることはさらに多くあるのです。
箴言を読む場合、聖書全体の文脈の中で気をつけて読まなければ、私たちは(しばしばそうなりますが)行動主義に陥ってしまいます。これは世俗的な心理学のアプローチで、人間の学びは単に条件反応に過ぎないという考え方です。しかし私たち、また子どもたちはそれ以上の存在であることを、キリストは教えておられます。私たちには心があり、心は存在の霊的核心、行動の源です(箴言4:23; マタイ12:33-35; 15:10-20; ルカ6:43-45)。また聖書は、私たちの心は生まれながらにして堕落していることも教えています(詩篇51:5; ローマ5:12)。したがって、家庭に属する親も子どもも、究極的には内面にある問題の解決が必要です。
この事実から、親たちは再び大宣教命令に立ち返ることになります。弟子としての訓練において根本的に必要なのは、罪からきよめられた新しい心です。この御業を成し遂げられるのは、ただキリストのみです。主は、預言者エゼキエルを通してこう宣言されました。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけ……あなたがたに新しい心を与え、……わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(エゼキ36:25-27)。この箇所と大宣教命令におけるバプテスマとの関係性は明らかです。信者洗礼(credobaptism)を認める人であれ、幼児洗礼(paedobaptism)を認める人であれ、バプテスマは自分で行うものではなく、誰かによって行われるものであることは誰もが同意するところです。バプテスマは、御霊の働きの必要性を指し示す外的なしるしです。クリスチャンの親は、このことを知っておく必要があります——真の弟子訓練は、新しい心に変えられることなしにはありえません。子どもたちの弟子訓練の出発点は、バプテスマから切り離すことはできないのです。
主が子どもたちに働きかけ、彼らの心を変えてくださることを期待しつつ、次に親は、「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:20)という働きに進むことができます。繰り返しますが、これは幼い子どもに単に行動の従順を求めるものではありません。当然、子どもが尊敬を欠いた態度、不当な暴力、性的不品行、盗み、嘘、不平不満などを行った場合に、親は正しく適切な報いを与え、彼らを懲らしめなければなりません。その中には、叱責の言葉も含まれます(箴言29:15)。しかし、律法には神を中心とした最初の戒めの区分(最初の四つの戒め、出エジ20:2-11)があることを忘れてはいけません。
親は、「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのこと」を大切に受け入れなければなりません。そこには、キリストが招いておられる揺るがない忠誠(ヨハネ14:6; ルカ10:27)や、自分を捨てることと隣人愛(マタイ16:24; 22:39)、山上の説教の祝福(マタイ5:3-12)、物質的な繁栄より霊的な繁栄の優先(一テモテ6:17-18)、そして教会中心の生活(一ペテロ4:8; 一ヨハネ4:7; 二テモテ2:22)が含まれます。この領域における弟子訓練は、単なるむちと叱責ではなく、自制心を養い、知恵を育み、奉仕の機会を求め、リスクを負うことを励まし、落胆したときに慰めを与え、道を誤ったときに方向を正し、休みを与えることです。イエスが十二人の弟子たちを訓練されたとき、これらすべての側面がその教えの中に組み込まれていました。それは画一的なやり方ではありません。むしろ、それぞれの弟子たちの能力や、罪の傾向、献身の思い、そして回心の状態と状況に応じて、最もふさわしい方法で訓練されました。
これは、親が背負うには大きな重荷ではあります。現実的に言うならば、自分の力だけでは許容範囲を超えているでしょう。しかし神は、その欠けている部分を補うために、恵みによってご自身の教会を備えてくださいました。家庭における全人的な弟子訓練とは、徹底した教会中心の信仰生活を指します。そこでは、恵みの通常の手段——御言葉の教え、祈り、聖礼典(および教会の戒規)——を最優先します。家庭の中で教会生活を優先しない父親は、いのちを与える御言葉と祝福に満ちた聖化の機会を家族から奪っていることになります。彼は、「互いに〜しなさい」という教会に宛てられた新約聖書の書簡の戒めを、すべて嘲っています。それが怠惰によるものであれ、自分の知識を誇っているゆえであれ、神に敬虔に生きる人々から自らを切り離すなら、彼自身のみならず家族に祝福を望む権利などないことを理解すべきです。そのような生活を選択するならば、その父親がキリストの弟子と呼べるものを育てることはできません。キリストは教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたのです(エペソ5:2, 25)。
当然、完璧な教会など存在しません。しかし、他よりも健全な教会はあります(黙示2-3章)。主の日にともに礼拝を献げる地域教会を、合理的かつ賢明に選べば、バプテスマと御言葉の教えの両方が得られるだけでなく、神と隣人に奉仕し、自分を捨て、優先順位を吟味し直すための数多くの機会が与えられることでしょう。キリスト教教育を通して、家族全体が他の人からも真理を聞き、「これが道だ。これに歩め」(イザヤ30:21)と語る声を聞くことができます。日曜日の交わりは、この世でキリストとともに歩もうとする人々が「自分はおかしくないんだ」と確認し、弟子として訓練されることをより自然なものと捉える助けとなります。弟子訓練は共同体に対する命令です。ですから、この訓練は共同体の中で最もよく実現されるのです。教会生活という霊的訓練は、家庭での弟子訓練のすべてではありませんが、最も欠かすことのできない要素です。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

