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2025年04月10日(木)教会を去るべき時

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第十五章の記事です。
「いつ教会を去るべきか」と自問し、不安を感じたことがあるというクリスチャンは多くいるでしょう。この質問は重要なものであり、そこには多くの要素が関係しています。簡潔に言うならば、この質問に対する単純で包括的な答えはありません。しかし、この記事を通して、その質問に関するいくつかの考慮事項を概説したいと思います。
教会を去ることが何を意味するのかを定義することは、この議論をする上で有益でしょう。この記事では、教会の会員になることは聖書に則った考えであり、クリスチャンにとって必要不可欠なものであるということを前提の一つとします。ここで教会の会員であることの必要性を論じることはしませんが、言うまでもなく、教会員にならなければ、実際には教会を離れることはできません。したがって、聖書に基づいた適切な教会の政治体制を前提とすると、クリスチャンが教会を離れる方法は、死、除名、転会の 3 つしかないということになります。この記事では、死や除名については触れません。ここで「教会を去る」というのは、教会籍を別の教会に移すこと(転会)を意味します。では、いつそうするのが適切なのでしょうか。
最も簡潔な答えは、会員資格を継続することが不可能な場所へ引っ越したのでない限り、真の教会を離れるべきではないということです。常に条件、例外、状況があるため、これが簡単な包括的な答えではなくなることもあるでしょう。しかし、基本的な原則は変わりません。通常、真の教会を離れるべきではありません。しかし、あなたの通う地域教会に、真の教会の基本的なしるしが見られない場合は、教会を離れることを検討すべきです。
ベルギー信仰告白は、真の教会のしるしを概説することで、教会を離れる正当な理由を見極める助けになっています。
「まことの教会が認識されるしるしは、これである。すなわち、教会が福音を純粋に説教しているかどうか、キリストの訓令に従って正しくサクラメントを執行しているかどうか、生活を忠ために教会訓練を守っているかどうかである。」(第29条)
真の教会のしるしは、純粋な教理、純粋な聖礼典の執行、そして教会戒規です。これらは、クリスチャンが各々教会に留まるべきか去るべきかを判断するための 3 つの基本的なポイントを示しています。
私たちは、この世においては、罪の影響を受けていないクリスチャンの交わりは存在しないため、一切の誤りを持たない教会は存在しないことを認めなければなりません。ウェストミンスター信仰告白も、「地上にある最も純粋な教会も、不純と誤りの両者を免れない」と私たちに思い起こさせます(25.5)。教会を去るという決断は、その教会が完璧であるかどうかに基づいてなされるべきではありません。なぜなら、完璧な教会は存在しないからです。
教会に完璧さの基準を求めることはできませんが、教会が時に、教会の根幹を揺るがすような誤りに陥ることがあることを認めるのは正当なことです。教会は、ウェストミンスターであれ、Three Forms of Unity(ハイデルベルク信仰問答、ドルトレヒト信仰規準、ベルギー信仰告白)であれ、1689年の第二ロンドン(バプテスト)信仰告白であれ、あるいは歴史の精査によって聖書に忠実であると判断されたその他の信仰告白のいずれであっても、その教会が定めた信仰告白の基準に従って教え、説教すべきです。信仰告白の基準が欠如していると、教会がその神学的信念に忠実であるかどうかを判断することはほぼ不可能です。キリスト教異端者のほとんどは、批判に対して「私は聖書が本当に言っていることだけを教えているだけだ」と答えてきました。堅固かつ検証された信仰告白は、教会の教えを判断するための忠実な基準となります。この特定の教会は、真実だと言っていることに従って忠実に教えているでしょうか?もし教会が純粋な教理を説くことをやめたら、その教会を去るべき時です。
はっきり言っておきますが、私たちは教会の教えや説教に完璧さを期待してはいません。ときどき何かを言い間違えたり、誤った教え方をする牧師は、教会から見捨てられるのではなく、励まされる必要があります。牧師が完璧でないからといって教会を去ってはいけません。しかし、牧師や長老が自分の信仰告白の基準に常に反する行動を取るなら、深刻な問題が生じます。あなたがまずすべきことは、謙虚に長老たちと話し合い、そして教団の説明責任のある委員にこの問題を訴えることです。これらのリーダーたちが十分な答えを出せないのであれば、それは去るべき時なのかもしれません。聖礼典の適切な執行に関しても、同様の基準が適用されるべきです。
あるいは変わったのは教会ではなく、あなたの神学的確信かもしれません。その変化が、教会の交わりの中で継続的な摩擦を引き起こすほど重大なものかどうかを判断する必要があります。それほど重要でない場合は、その違いを無視してください。しかし、それが重大な変化であるならば、長老と会って謙虚にその変化を共有すべきです。その場合あなたは、自分の新しい見解が間違っていることを確信するつもりで話し合いに臨むべきです。あなたは主が建てられた権威に従うべきです。しかし、その見解の変化において聖書による確信にとどまり続けるのであれば、あなたの見解に一致する忠実な教会への転会を丁重に願い出るべきです。そしてあなたは、以前通っていた教会が、教えるべきことを忠実に教えていたことを率直に認めるべきです。このような状況下で教会を去ることは、以前所属していた教会を批判する理由にはなりません。
あるいは、みことばの教え、聖礼典の執行、教会戒規の行使には問題はないのかもしれません。あなたはただ、教会から何も得られないと感じており、道の向こうにはとても魅力的でダイナミックな新しい教会があるのかもしれません。その教会に行けば家族はもっと教会に関わるようになるだろうと、あなたは思っているのでしょう。もしこれがあなたの状況であるなら、問題は教会ではなくあなた自身にあるかもしれないと認める必要があります。あなたは、神の礼拝者としてではなく、単に教会を消費するために集っているのかもしれません。真の教会であなたの「必要」が満たされていないように感じるなら、それは間違った「必要」を満たすことに、あなたの関心が向けられているからかもしれません。
1『改革教会信仰告白集 -基本信条から現代日本の信仰告白まで-』関川泰寛、袴田康裕、三好明編訳、2014年、教文館。 p. 213.
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。