
赦されない罪
2025年04月02日(木)
教会を去るべき時
2025年04月08日(木)妻と利他的に生きるということ

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第十四章の記事です。
キーボードを打つ前に、まず私は、この記事を書くべき人間であるだろうかと妻に尋ねました。まだ何も書かないうちに、自分はこの執筆をする資格があるかを確認したのです。妻は少しのあいだ考えを巡らし、「そうね、あなたにはその資格があると思う」と言いました。彼女の承認を嬉しく感じましたが、同時に私たちは夫婦ともども、クリスチャン生活の多くの部分において、言葉で言うのは簡単でも行うのは難しく、説明するのは簡単でもそのとおりに生きることは難しい、ということは理解していました。そして、このテーマも例外ではありません。利他的に(人の利益を求めて)生きることを計画し、約束し、祈ることは簡単ですが、それを常々、毎日実践することは、難しいことです。私がこの世界で一番愛している人とでさえ、利他的に生きることは難しいのです。
私はしばしば、結婚生活の奇妙なパラドックス(逆説)に思いを馳せます。私が最も愛する人は、私が最も罪を犯す相手でもある、ということです。物理的に近くにいて、親しく、「死が二人を分かつまで」と人生をともに生きる誓いを交わしたゆえに、私は妻を愛しながら傷つけ、祝福しながら罪を犯す機会を生涯持ち続けることになります。私は妻と、利他的に生きる機会を得ていますが、同時に利己的に生きる誘惑とも戦っています。
神のことばは、夫が妻に対して理解を示す方法で——すなわち、妻を特別に尊敬して——生きることは、すべての夫の責任であると明確に語っています(一ペテロ3:7)。神は、夫が妻を導くべき存在であることをはっきりと示しつつ、それが支配ではなく愛に基づくものであること、そして優位に立つことではなく犠牲を払うことによってその愛が示されることを教えておられます(エペソ5:25-31)。妻に与えられている召命が、夫のリーダーシップに服従し彼を尊敬することであるなら、夫に与えられている召命は、妻が服従しやすいように彼女を導き、妻からの尊敬に値するように彼女を愛することです。それは自分自身よりも妻を優先し、自分の益よりも妻の益を考え、犠牲を払ってでも彼女を愛することを意味します。それはつまり、利他的に生きることを意味するのです。
利他的に生きるとは、互いに補い合う関係であることを認めて生きることであり、男性と女性の違いを理解し受け入れることです。一般的に男性が心の奥底で信じていることとして、妻がもっと自分に似てさえいれば——もし妻が男性のように物事を考え、男性のように理性的になり、男性のように欲望を感じれば、結婚生活はもっと簡単になり、夫婦の絆も強くなるだろうという考えがあります。しかし神は、二つの性別という、素晴らしく異なり、素晴らしく補い合う関係性のうちに、ご自分の栄光を現されることを選ばれました。妻を本当に愛する夫は、その違いをもとに争うのではなく、むしろ喜んで受け入れ、相手の違いを過ちではなく神の特別なデザインとして見ることができます。そのような夫は妻の話を注意深く聞き、愛をもって妻を慰め、進んで妻を養います。その夫は、妻が自分と同じように、共通点も相違点も含めて、奇しく恐ろしいみわざによって神のかたちとして造られたことを理解し、受け入れます。
すなわち、利他的に生きることは、憐れみをもって生きることです。パウロは、コロサイの信者たちにこのように書き記しました。「夫たちよ。妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません」(コロサイ3:19)。パウロがこの具体的な勧めを手紙に書き留めたのは、当然そのような誘惑が蔓延していたからに他ならないでしょう。そして夫はみな、妻に対して辛辣な態度を取ったり、ぶっきらぼうに、刺々しく、不真面目に扱ったりすることがあることを認めなければなりません。しかし、妻を敬おうとする夫は、優しさと尊厳、気遣いと思いやりをもって妻に接します。その夫は、神が自分に妻を与えてくださったことを噛み締め、神がこの特別な妻を自分に委ねてくださったことを光栄に思い、進んで妻に、神が与えてくださった愛と愛情を注ごうと願います。彼は優しく寛容で、妻に対して罪を犯したときは、いつもすぐに悔い改め、赦しを求め、関係を修復しようと努めます。
利他的に生きることはまた、人生の伴侶として生きることです。「あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。/彼女は、あなたの空しい日々の間、/日の下であなたに与えられた者だ」(伝道者9:9)。敬虔な夫は結婚関係の自由と親密さを楽しみ、妻を自分の最も大切な伴侶、最も親しい友として喜びます。どのような結婚生活も時には困難が訪れ、どのような関係であっても時には努力や修正が必要となりますが、このような夫は変わらず妻を楽しみ、結婚関係にしかない特別な喜びと奥義を喜びます。彼は、妻の女性らしさから生まれる強さを大切にし、妻の独自の洞察力を楽しみ、妻が楽しむことを自分もともに楽しもうとします。夫は生まれつきの利己主義を捨て去り、最も親しく、大切な伴侶としての人間関係に目覚めます。
善良な男性なら、自分の妻のために進んで命を捧げるでしょう。妻に当たったであろう弾丸を受け止め、妻を苦しめたであろう痛みを喜んで受け入れます。しかし、妻のために生きる男性は稀です。手を伸ばせばすぐに届く利己主義をあえて脇に置き、妻の利益と喜びのために生きるような男性です。しかし、自分のことよりも妻を優先し、神が与えてくださった妻とともに真に利他的に生きることができるように自分自身に根付くうぬぼれを完全に捨て去る夫ほど、キリストに似た者として振る舞っている夫はいないでしょう。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。