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赦されない罪

編集者注:これはテーブルトーク誌のキリスト教とリベラリズム(自由主義神学)というシリーズの第十三章の記事です。

ヨハネの福音書6章で、イエスの弟子たちは、イエスのことばが「ひどい話だ」(hard sayings = 難しい話)と言いました。牧師として、「赦されない罪とは何か?」という質問をたびたび受けます。イエスはこの質問にどう答えられたでしょうか。

「人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」(マタイ12:31-32)。

これは赦しに関する宣言の中でも、驚くべきことです。驚異的とも言うべきです。この威厳に満ちた栄光の神、権威と力を持つ神、その王国は世代を超えて存続する、その神が、罪人を赦してくださるというのです。十字架の上からでさえ、イエスが私たちのために御父に懇願してくださることばを聞くことができます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)。

しかしここには、矛盾もあるようです。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません」 この逆説をどう説明すべきでしょうか? D・A・カーソンは、初めの一文を対外的に読むべきだと述べました。赦されない罪はありません。これは聖書の物語に当てはまります。ダビデの犯した、姦淫、殺人、裏切り、偽善の罪を思い出してください。それでも、ダビデは赦されました。ペテロはキリストを三度否定しました。パウロは教会を迫害していました。コリント人への手紙第一6章に言及される、性犯罪者、貪欲な者、偶像を拝む者、そしる者、盗む者、酒におぼれる者、奪い取る者を考えてみてください。彼らも、キリストを信じる信仰によって赦されています。対外的には、赦されることのない罪はありません。

しかし「対内的」にはどうでしょうか。聖霊を退けたり、罪の告白を拒んだり、キリストの憐れみのうちに自らを委ねようとしなかったりするなら、その罪は赦されることがありません。他に、赦しを保証するための方法がないからです。あなたが真理を聞き、その真理が本物であることを聖霊が証明してくださったにも関わらず、心を頑なにし、悔い改めを拒むなら、赦しは与えられません。赦しが与えられるための、代わりの手段はありません。

聖書は、聖霊があらゆる抵抗に打ち勝ち、神の民が悔い改め、信じるように彼らを動かすと教えています。この不可抗的な恵みなしには、キリストのもとに近づく者は一人もいないでしょう。罪が一般的に明らかにされることでさえ拒否されるのが現実です。ローマ人への手紙1章にあるように、真理は阻まれます。私たちは御霊の罪に関する明確化を押しのけることができるのです。真理を無視することは可能であり、それは非常に危険なことです。これが、マタイの福音書12章でキリストが警告しておられることです。

ここには、約束と警告があります。約束とは、いかなる罪も赦されるということです。警告とは、罪が明らかにされるとき、決してそれを拒んではいけないということです。この箇所において、赦されない人はいないというのは良い知らせですが、もし私たちが神のことばに対して心を頑なにし、聖霊のみわざを押しのけるなら、私たちは悔い改めない者になりうるのです。イザヤ書55章のことばにある通りです。「を求めよ、お会いできる間に」(イザヤ55:6)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

テッド・トリップ
テッド・トリップ
テッド・トリップ博士は、ペンシルベニア州ヘーズルトンにあるGrace Fellowship Churchの名誉牧師であり、Shepherding the Heart Ministriesの会長である。著書に『Shepherding a Child’s Heart』がある。