
ヨブ記について知っておくべき三つのこと
2025年06月11日(木)
ヨハネの手紙第一・第二・第三について知っておくべき三つのこと
2025年06月19日(木)箴言について知っておくべき三つのこと

1. 箴言は知恵を集めた書物であり、保証を集めた書物ではない
一見すると、箴言はあらゆる人生の問題に簡潔で素早い定型的な答えを提供してくれるように見えます。そこに書かれている公式のとおりに生きるなら、繁栄と成功が保証されているかのようです。つまり、箴言を表面的に読んだ場合、「X」をすれば「Y」を手に入れられるという結論が導き出されるでしょう。この場合「X」は知恵、「Y」は人間的な成功や繁栄を意味します。例えば、箴言3章1-2節を読むと、箴言の教えを忘れず、その命令を守る人は、長寿と繁栄を経験するだろうと書かれています。この箇所だけを見れば、この結果は保証されているかのように見えるのではないでしょうか? このような単純な方法で箴言を読むことは魅力的です。しかし、それは誤った箴言の読み方であり、場合によっては害を及ぼす可能性もあるのです。
箴言は、どんな状況にも常に当てはまる公式を提供しているわけではありません。むしろ私たちが熟考し、よく見定めて実行する価値のある、賢明な原則を提供しています。箴言を読むときは、報いは必ずしも従順の結果として即座に現れるわけではないという基本的な聖書の原則に則らなければなりません。時に従順に対する報いは先延ばしにされ、来るべき時代まで与えられないこともあります。イエスを思い出してください。イエスは具現化された知恵そのものであり、すべての戒めに完全に従順な生涯を送り、一時的に大きな苦しみを受けられました。イエスが高く上げられたのは、従順のうちに苦しみを受けられた後でした(ピリピ2:5-11)。私たちは保証された結果を手に入れるためではなく、この書物が神から与えられたこの世で生きるための指針であるからこそ、箴言の知恵を追い求めるべきです。
2. 箴言は神が私たちの生活のあらゆる側面に関心を持っておられることを思い起こさせる
箴言の素晴らしさの一つは、その幅の広さです。箴言は人間の生活の多くの側面を、非常に実践的な方法で取り扱っています。箴言に含まれる内容をテーマごとに分類していくと、実に広範にさまざまな関心ごとを取り上げていることがわかります。富について(箴言3:9, 13-14; 11:4; 13:7, 11, 22; 14:31; 21:5; 28:6, 20; 30:8-9)、言葉について(箴言10:19; 12:19; 15:23, 28; 17:27-28; 25:11; 26:20)、仕事について(箴言6:6-11; 12:11; 19:15; 20:4, 13; 26:13-16)、友情について(箴言17:17; 18:24; 27:6, 9)、結婚について(箴言12:4; 18:22; 19:14; 27:15; 31:30)、子育てについて(箴言13:24; 17:6; 19:18; 22:6; 23:13-14; 29:17)、人間の性について(箴言5:3, 8-9, 15-19; 6:27-29)などです。これは神が、私たちの生活のあらゆる側面に関心を持ち、そのすべての領域において私たちが神のことばとその知恵とを適用することを望んでおられることを思い起こさせます。
時に、クリスチャンは自分の生活を切り分けて、信仰に関することは日曜日の朝の礼拝や個人的なデボーション、祈り、伝道など「霊的な」ことのためだけに限定してしまうことがあります。しかし神にとって、また私たちの幸せのためには、霊的な鍛錬に誠実であることは重要であると同時に、私たちがいかに自分の富を管理し、語る言葉を選び、職場でどう働き、友人や配偶者をどう選ぶかということもまた重要なのです。生活のあらゆる領域に神の知恵を示すことで、箴言は信仰を区分化しようとする私たちの誘惑に問いかけ、誤りを正してくれます。
さらに、私たちの生活のあらゆる側面に対し、神が父親のように関心を寄せておられることは、その領域で私たちが体験することに大きな意味と意義をもたらすことになります。箴言は、何をするにもすべて神の栄光を現すためにする(一コリ10:31)という人生観、あるいは世界観を抱くための助けです。箴言は、神が私たちの行うことすべてを気にかけておられ、神が私たちに最善を願っておられることを思い起こさせます。究極的には、これほど広範な箴言の知恵は、私たちが栄え、活力をもって生きるための神からの賜物です。
3. 知恵を強調することで、箴言はイエスを指し示している
箴言は、イエス・キリストのみわざに関する型や予示の情報源としては軽視されがちですが、実際にはイエスについて力強く語っている書物です。まず、福音はイエスが偉大な知恵を持っていたことを示しています。イエスが幼いころ、神殿で年長者たちを教えていたときから、イエスが知恵に満ちておられることが明らかになっており、また、その知恵がさらに増し加わっていたことも記されています(ルカ2:47-52)。さらに、イエスが宣教の働きを公に始めたとき、人々への教えの中でよく取り入れられたのがたとえ話を用いる方法でした。これは知恵の教えの一形態と言えます。福音書では、箴言の賢者のように、イエスを知恵の教師として描いています。
イエスと箴言の二つ目の繋がりは、箴言が知恵の限りない価値を教えていることです。箴言は、私たちが知恵を銀や金よりも価値があるものとして見なすように勧めています(箴言3:14-35)。箴言は、この計り知れない価値を持つ知恵を、読者が追い求め手に入れるようにと強く勧めています。新約聖書は、イエスが「神からの知恵」であり(一コリ1:30)、この方のうちに「知恵と知識の宝」がすべて隠されている(コロサイ2:3)と述べています。したがって、箴言が他の何よりも知恵を追い求めよと勧めるのは、究極的に知恵そのものであられる方を追い求めよ、という招きです。イエスは知恵を持っていてその知恵を教えただけではありません。イエスこそが、知恵そのものであられるのです。この方を追い求めないことは、人間の最も愚かな行為です。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。