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箴言について知っておくべき三つのこと
2025年06月12日(木)ヨブ記について知っておくべき三つのこと

1. ヨブ記は異邦人の族長についての古代の書物である
ヨブ記は、旧約聖書の中でエステル記と詩篇の間に位置しています。この配置は、ヨブがどのような人物で、どの時代に生きていたのかについて、誤った結論に至らせることがあります。
まず、ほとんどの学者はヨブがイスラエル人でなかったことに同意しています。この結論は、ヨブがカナンの地ではなくウツの地に住んでいたという事実から導き出されたものです(ヨブ1:1)。哀歌がエドムとウツを関連づけていることから(哀歌4:21)、ヨブはエドムに住んでいた可能性が高いとされています。ヨブはイスラエル人ではありませんでしたが、彼がイスラエルの神を礼拝していたことは一目瞭然です。ヨブがイスラエルの外に住んでいたという事実は、ヨブ記の知恵が、箴言と同様、普遍的な性質を持ち、すべての人間が直面する問題(苦しみなど)に対して語りかけていることを示しているのかもしれません。
二つ目の誤ちは、ヨブ記に記される出来事が起こった時期です。これはエステル記の時期(紀元前486-485年)と一致しません。むしろ、アブラハムとその族長時代の時期に当てはまります(紀元前およそ2100-1800年)。実際、多くの学者はヨブがアブラハム契約より以前に生きていたと考えます。ヨブが族長時代に生きていたという議論を指示する要因をいくつか挙げてみましょう。第一に、ヨブ記で使われている神の名前は、族長時代の書物で用いられているものと似ています。第二に、ヨブの富の表現(家畜の数、しもべ、貴金属など)は、族長時代に用いられた表現と一致します。第三に、ヨブの140年という寿命(ヨブ42:16)は、族長時代の寿命と一致します。第四に、最も説得力がある要因として、ヨブは家族のために祭司的役割を果たしていることです(ヨブ1:5)。これはレビ人の祭司職がまだ確立されていなかったことを示しています。
2. ヨブ記は、義人が神の知恵ある目的によって苦しむことを神が許されることを教える
しばしば、ヨブ記は人間の苦しみの謎を解説してくれる書物だと考えられていますが、それは違います。しかしヨブがなぜ苦しんだのかについては、説明がなされています(ただし、ヨブ自身には苦しみの理由は知らされることはありませんでした)。ヨブに苦しみが与えられたのは、ヨブが神を崇めるのは神の祝福があるからに過ぎない、とサタンが強く主張したからです。神がその祝福を取り上げたなら、ヨブは神の名を呪うだろうとサタンは予測したのです(ヨブ1:9-11)。神は、その絶対的主権によってサタンがその仮説を試すことを許され、それによってサタンの間違いは証明され、神とヨブの正しさが立証されました。神はその存在自体が礼拝に値すると立証され、ヨブは誠実な人として立証されました。
しかし、ヨブの物語から得られる教訓は、ウツの地に住む一人の古代の男にのみ与えられたものではありません。神の主権と人間の苦しみ、そして人の義とのあいだにある神秘的な関係は、人間の置かれている状況に関するより広い普遍的な問題に語りかけ、誤った神学の是正を促します。ヨブ記は、苦しみが必ずしも罪と結びついているわけではないという原則を確立することで、この是正を行っています。ヨブは、義人も堕落した世界では苦しむということを教えています。ヨブ記1章1節に明らかにされているように、ヨブは誠実で、非の打ちどころがなく、義なる人でした。それでも、書物の残りの部分が示すように、彼は大いなる苦しみを経験します。
ヨブ記は、義人が苦しむ例を提示することによって、「報いの神学」と呼ばれる考え方への有用な是正を示しています。報いの神学は、人は自分の不義な行いに対して苦しみを受け、義なる行いに対して良い報いを受けるという考えです。ヨブの友人たちはこの誤った神学に立っていましたが、現代のクリスチャンもまた、同じ誘惑に陥る可能性を孕んでいます。ありがたいことに、ヨブ記はこのような考え方が誤っていることを明らかにし、神が義人にその目的を明かされなくとも、神の善い、知恵ある目的のために、義人の苦しみが許されることを思い起こさせます。
3. ヨブ記はイエス・キリストの贖いのみわざの予型である
ヨブ記が私たちをイエス・キリストのみわざに目を向けさせる一つの側面に、ヨブが自分と神との仲介者を求める姿が挙げられます。物語が展開するにつれ、ヨブは神に質問し始め、ある時点で絶望的になり、仲裁者(仲介者)が自分の代わりに神の御前に立ってくれることを叫び求めます(ヨブ9:32-35)。もちろん、新約聖書は神がそのような仲介者をイエス・キリストにあって与えてくださることを明らかにしています(一テモテ2:5-6)。
しかし、ヨブ記がキリストの贖いのみわざの予型を示す第一の方法は、神の知恵ある目的を成就するために義人が大いなる苦しみに出会うことがある、という教えです。私たちが見てきたように、義人であるヨブは、神とヨブ自身が正しいと立証されるために苦しみを受けることが許されました。もちろん、すべてにおいて完全に義であるイエスもまた、神の贖いの計画と神の民の救いを保証するという知恵ある目的の成就のために、神の怒りの苦しみを受けることが許されました。ヨブの物語は十字架の物語を予示し、その十字架の物語においてこそ、私たちは苦しみの本当の意味と意義とを見出すことができるのです。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。