神学、神学、神学:なぜリゴニア?
2022年06月21日(木)
神学と教会
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私たちの神学とは?

編集者注:これはテーブルトーク誌の今のこの瞬間が永遠を変えるというシリーズの第三章の記事です。

テーブルトーク誌には、原動力となっている重要な信念がいくつかあります。リゴニア・ミニストリーズの歴史全体もまた、これらの信念によって前進してきました。その一つに、マルティン・ルター(この人物以外には考えられません)がおよそ500年前に残した言葉があります。

私たちは誰もが神学者である。これは、すべてのクリスチャンがそうであるということを意味する。すべての人が神学者であると言われるのは、すべての人がクリスチャンであるようにということである。

では、神学とは何でしょうか。また、具体的に、私たちの神学とは何でしょうか。

神学について

神学とは、神について論理的に、一貫性をもって考察し、語ることです。それはこの上なく崇高な意味での「神談義」とでも言えるでしょう。クリスチャンにとって、それは神が与えてくださった啓示に根ざし、表現した神学を意味します。従って、ある意味私たちは「すべての被造物の神学」を持つべきです。なぜなら、宇宙全体 ― 歴史の展開や人の発見 ― はすべて、何らかの形で、創造、摂理、贖い、完成によって明らかになる神の自己啓示に含まれているからです。これはアブラハム・カイパーが、絶対的な意味では、神と関係のないものはこの宇宙にないと述べた通りです。もしくは、より権威のある言葉を引用するならば、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)とある通りです。ですから、原子物理学者であれ、宇宙飛行士であれ、読書好きであれ、庭師であれ、ゴミ収集業者であれ、さらに敢えて言うならば、職業としての「神学者」であれ、Omnes sumus theologi  ― 私たちはみな神学者 ― なのです。これは、考えうるすべての職業における、私たちの人生の特権であり、挑戦であり、ロマンでもあります。パウロの言葉を借りて究極的に表現するならば、私たちはただ一つのことをしているのです(ピリピ3:13)。では、パウロはたった一つのことしかしていなかったのでしょうか。そんなことはありません。しかし、ある意味では、そうなのです。彼は数え切れないほどの様々な行いの中で、ただ一つのことをしていたのです。私たちも同じです。すべての物事において、私たちは神学者です。なぜなら、人生はすべて神を知るためにあるからです。

では、神学は私たちにどのように影響するのでしょうか。これは例えを使って説明するとわかりやすいかもしれません。BBC(英国放送協会)で放送されている、私の好きなテレビ番組があります。The Repair Shop (ザ・リペア・ショップ:修理屋さん)という番組ですが、最近は憂鬱な番組や不道徳な番組、あるいはその両方が多い中、これは純粋に心温まる内容です。この番組ではまず、一般の人が、傷や歪みがあったり、腐敗していたり、壊れかけたりしている家宝を持ってきて修理を依頼します。それぞれの品物にはストーリーがあり、依頼者はなぜそれが(金額的には取るに足らないものであっても)自分にとって重要なのか、大切な人とのどのような思い出があるのか、といった実に感動的なエピソードを語ってくれます。そして私たちは、その品物を預かる職人たち、木工、金工、機械、家具、楽器、からくりの仕掛けの達人、ソフト・ハード面の様々な分野の専門家たちが、まるで魔法のような技術を駆使して修理していくのを目の当たりにするのです。私のような人間は、場当たり的な修理で済ませ、それで解決することを願いますが、彼らはそうではありません。まず完全に解体し、再び組み立て直しながら、その貴重な宝物が長らく失っていた輝きをもう一度よみがえらせるのです。そして最後には素晴らしい再会の場面が待っています。修理され、完成された栄光に輝く品物が披露されるとき(いつも何の変哲もない布で覆われているのですが、宝物の復活を予感させる完璧な演出です)、その持ち主たちの溢れんばかりの感謝、賞賛、そして時には涙を流すほどの喜びを、視聴者である私たちも体験し、その感動を共有するのです。

神学は、福音によるリペア・ショップです。神学の様々な「諸題(loci)」または主題(神、天地創造、堕落、摂理、贖い、栄化)は、いわば、様々な専門技術職人がいる部門のようです。それぞれの部門で、まず私たちの壊れてしまった部分を解体し、本来の創造の意図が回復されるまで私たちを再構築していきます。このようにして、かつて私たちの父祖たちが巡礼(旅人)の神学(the theology of pilgrimage)と呼んだ、鏡にぼんやりと映っているものが、直観の神学(the theology of vision)となり、神を顔と顔を合わせて見るようになります。神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶために神のかたちとして創造された私たちは、ついに神に似た者となるのです。

では、私たちの神学とは何でしょうか?

私たちの神学について

トマス・アクィナスは、神学は神から生まれ、神について教え、神へと導くものであると言った、と伝えられています。そして永遠のいのちとは、神と神によって遣わされたイエス・キリストを知ることです(これは聖霊の働きによってのみ知ることができます・ヨハネ17:3; 14:23, 25も参照)。私たちの神学は神に始まり、神に終わるのです。神学は神がどんなお方であるかを教えてくれます。神は、永遠に祝福された三位一体の唯一の神であり、父、子、聖霊の三つの位格として永遠の交わりをもっておられます。このような神学は神の一貫した、統一されたご性質を知ることへと私たちを導きますが、私たちの限られた能力ではその諸側面を少しずつ理解していく他ありません。これらの諸側面を神の属性と言います。神の属性は、神の完全性、神性、無限性、そして神の栄光に満ちた神の本性を説明するための限られた分類に過ぎません。

従って、私たちの神学とは、三位一体の神の神学であり、自らにおいて、自らに対して、全く満ち足りておられる神、すべてにおいて聖い愛としてご自身を現される神の神学です。ですから、私たちの神学が、聖さの預言者と愛の使徒による二つの幻(イザヤ書6章とヨハネの黙示録4-5章)によって決定づけられていることは当然のことかもしれません。この二つの幻に私たちの神学のすべてが集約されているとも言えることは、注目すべき事実です。

これらの聖書箇所の記述には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」(黙示4:8)であられる神の神性と、天地創造の物語(11節)が反映されています。ニカイア信条に「全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者」とある通り、天と地における万物は三位一体の神によって創造されました。すなわち、神のことばとしての永遠の御子を通して、そして、大水の面を動いていた御霊が命じ、満たし、完成させることによって、創造の御業が成されました。

これらの箇所は鏡のように私たちが創造された目的を映し出してはくれますが、真理は私たちの背後に横たわるかのようで、はっきりと見えません。私たちは本来、神の栄光のために、神を喜ぶために創造されました。つまり、神と交わりをもち、神に栄光を帰すためです。しかし、私たちは今まさにイザヤのように、神という聖なるお方を知って、ただただ圧倒されるしか術がありません。そして私たちが、廃墟となったスコットランドの古城のように、サタンの攻撃によって破壊されて崩れ落ちた存在であることに気付くのです。廃人となった私たちは、自分で回復できず、未完成で、汚れた存在です。救いと回復の計画が記されているかもしれない巻物を開くにも、それにふさわしい者が誰もいないのです(黙示5:4)。

しかし、私たちの神学はこのままでは終わりません。神は、ご自分のかたちを取り戻そうと願っておられます。確かに、私たちは自分が損なわれていることを理解しなければ、回復の必要性を認識することはできません。そこで私たちのイザヤ的・ヨハネ的神学は、こう教えます。神の働きは決して別々の神によって成されるのではない。一貫した、唯一の三位一体の聖い神が、回復をもたらすために自ら使者を遣わしてくださる。その回復は、いけにえの祭壇からの燃えさかる炭によって、まず私たちを焼き尽くし、そして回復を与える、と。さらに、この聖書によって組み立てられた神学は、イザヤがその幻の中で主イエスの栄光を見たということを語っています(ヨハネ12:41)。ここで私たちの神学は、神による啓示は漸進的かつ累積的であると考えるため、イザヤの幻が指し示す人物はユダの獅子、世の罪を取り除く神の子羊に他ならないと理解します(黙示5:6-10)。「キリストを学ぶ」(エペソ4:20)ためにさらに深く掘り下げるならば、キリストの神性、すなわち一つの位格のうちに結合された二つの本性、キリストの謙卑と高挙の二つの状態、そして預言者、祭司、王としてのキリストの三職、これらすべてが、ただお一人の主イエス・キリストであるのです。

この文脈において、私たちに何かが起こるということがわかります。天から送られる御霊によって、私たちの人生は、キリストの贖いのいけにえのもとに、キリストと生きた交わりの中に導き入れられます。私たちの罪は赦され、義と認められます。それと同時に、燃えさかる炭によって私たちのうちにある罪を聖める御業が始まるのです。カルヴァンも繰り返し述べたように、義認はキリストによるとしながら聖化はキリストによらないと考えることは、キリストをバラバラに切り裂くことと同じです。キリストは両方の御業のために私たちに与えられているからです。御霊は、私たちにとって「義と聖」になられたお一人のキリストに結びつけます(一コリ1:30)。従って、義とされた罪人は、同時に罪の支配に対するキリストの死と共に死に、神との新しいいのちを得るキリストの復活と共によみがえっているのです(ローマ6:2-4)。これ以外の神学を持つことは、恵みこそが「義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導く」(5:21)ということを、正しく理解できないことと同じです。

超越的な幻を見たイザヤが、「ここに私がおります。私を遣わしてください(それがどんなに険しい道であっても;イザヤ6:8-13)」と、最終的に無条件の服従を告白したことは不思議ではありません。そしてこのイザヤが幻の中で口にした賛美が、天の栄光を垣間見たヨハネの経験の中でも繰り返されていることもまた、当然のことかもしれません。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者、昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」(黙示4:8)と、最後は神を崇める賛美が永遠に続きます。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと力が世々限りなくあるように」(5:13)。リゴニアの全国カンファレンスの締めくくりにヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」を歌うことが恒例となっている由来は、ここにあるのです。

そうです、これが私たちの神学です。この神学こそが、リゴニアの心臓部です。私たちはこの神学を、「R・C・スプロール率いる専属講師陣(The Teaching Fellowship of R. C. Sproul)」として、50年に渡って様々な形で表現してきました。今私たちも、このチームの一員となります。そして、この神学、私たちの神学が、神によるリペア・ショップとして、壊れてしまった私たちの姿を贖い出し、最終的な回復にまで導いてくれるのです。Soli Deo Gloria! ― 神のみに栄光あれ!


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン博士は、リゴニア・ミニストリーズの専属講師であり、Reformed Theological Seminaryの組織神学の総長教授。以前はサウスカロライナ州コロンビアのFirst Presbyterian Churchで主任牧師を務めていた。彼の著書は25冊を超え、『The Whole Christ』、『The Holy Spirit』、『In Christ Alone』、『Devoted to God』などがある。