民数記について知っておくべき三つのこと
2024年07月19日(木)ヨシュア記について知っておくべき三つのこと
2024年07月25日(木)申命記について知っておくべき三つのこと
申命記はそれ自体が意義深い書物ですが、新約聖書で引用されている回数が多いこともまた重要です。イエスとその弟子たちの教えは、この書から直接引用されました。イエスは誘惑に遭われたとき、この書から引用し(マタイ4:4, 7, 10)、すべてを尽くして神を愛するという強調点を再確認されました(マタイ22:37-38)。使徒の働きにおける使徒たちの説教でも、かなりの引用がされており、特にイエスというお方が預言者職についてのみことばを成就されたことを取り上げています(申命18:15; 使徒3:22)。新約聖書の書簡のうち、少なくとも7つで申命記からの引用があります。中でも、最も意義深いとされるのはガラテヤ人への手紙3章10-14節でしょう。ここでパウロは、キリストが私たちののろいとなることによって、申命記が語るのろい(申命21:23参照)から私たちを贖ってくださったと書いています(ガラテヤ3:13)。
申命記の英語の題名「Deuteronomy」は、ラテン語とギリシア語からきた言葉で「第二の律法」を意味します。申命記17章18節の記述が、まさしく「第二の律法」を指していると理解されたためです。しかしこの箇所は、王が自分のために律法の写しを持つことが記されているだけです。申命記の内容を見ると、この書物は第二の律法ではなく、シナイ山(申命33:2以外で、申命記全体においては「ホレブ」と呼ばれる)で行われた契約の更新であることがわかります。それは神がアブラハム、イサク、ヤコブに与えた恵み深い約束と明確に結びついています(申命6:10-11; 7:7-9など参照)。また同時に、モーセ五書の完成を示すものでもあり、神が与えると誓った土地へとイスラエルの民が入る直前に、族長との約束が部分的に成就したことに重点が置かれています。
ここでは、申命記を読むうえで、また教えるうえで知っておくべき三つの特別な点を挙げたいと思います。
1. 申命記は契約文書である
申命記は、契約文書として、神と神の民との結びつきを記した書物です。神はその恵み深い憐れみによって、民と特別な関係を結ばれました。神は民を愛し、力強い御手で彼らを贖われました(特に申命7:7-9; 9:5-6; 14:2参照)。シナイ山では、神は民と、この正式な関係を結ばれます。神は民に近づいて約束されました。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる。」 それゆえ、契約は神と人を結びつけるものであり、神の恵みによって神が主権的に執行された約束に、神と神の民が正式な言葉をもってこの関係性を言い表したものでした。神の契約の民は、この贖い主である神が彼らのためにしてくださったことすべてに対して従順をもって応えなければなりません。民の生活のどの部分も、神の倫理的要求から免れることはできませんでした。申命記の構成とその内容は、紀元前2千年紀において世俗的に一般とされる条約のかたちに非常によく似ています。
2. 申命記は十戒の解説書である
申命記ほど十戒を完全に解説している書物は、聖書の他のどの部分にも見当たりません。申命記5章に記されている十戒と、6-26章の解説文は対照的です。ただし対照的とは、神の律法と人の律法という対比ではありません。むしろ、契約の基本的な核心部分である十戒と、そのさまざまな適用を示す解説、という対比です。解説は、神の主権者としての命令を聞き手の良心に印象付けるための説教として構成されています。モーセは、イスラエルの民の前に、いのちと死、祝福とのろいを示し、民にこのように挑戦します。「あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである」(申命30:19-20)。
しかし、十戒の解説については他にも語るべきことがあります。出エジプト記21-23章の契約の書では、十戒の戒めのうちいくつかは取り上げられていますが、出エジプト記20章に出てくる順番ではありません。しかし申命記の解説では、申命記5章と同じ順序で取り扱われています。戒めの規範的な形式は5章に記され、その後の6-26章では記述的な形式で記されています。十戒の解説は、戒めの本質的な要点を詳しく説明しつつ、その戒めの示す軌道を説明しています。これは、戒めの多くは幅広い意味合いが含まれているということを、最初に読んだだけではわからないためです。例えば、第五の戒めは、親子関係に関する問題だけでなく、イスラエルにおけるすべての権力構造にも適用されます。
3. 申命記は所有地の概念を強調している
モーセ五書のうち、初めの三つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記)は神と神の民との関係という側面がより強く、民数記と申命記は所有地の側面により着目しています。申命記では、家族が増えることなど(申命1:10; 10:22; 28:62)、族長たちに与えられた他の約束も反映されていますが、それでも土地の所有についての内容がその大半です。所有地は、神からの賜物であり、民がそれを所有するはるか以前から神が与えると誓われた土地でした。神の民はその地で「安息」を得て(申命3:20; 12:9-10; 25:19)、神が与えてくださる祝福を享受するはずでした。この安息の概念は、詩篇95篇で取り上げられ、ヘブル人への手紙3章7節から4章13節でもさらに展開されています。カナンの地にイスラエルの民の安息が待っていたように、クリスチャンにも安息が待っています。それは、クリスチャンが求める「天の故郷」、すなわち来るべき永遠の都と同じです(ヘブル11:16; 13:14)。キリスト教の讃美歌が、死と神の天の安息への参入の象徴として、ヨルダン川を渡って約束の地へ入るというテーマを取り上げたことは当然のことと言えるかもしれません。
申命記はモーセ五書を締めくくり、その時点で族長たちへの約束が部分的に成就されたことを示します。カナンの地に入ることで所有地のテーマが実現し、王権や預言といった他の約束においては、乳と蜜の流れる地を占領してから成就されています(申命31:20)。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。