私たちの神学とは?
2022年06月21日(木)
神学と私たちの生活
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神学と教会

編集者注:これはテーブルトーク誌の今のこの瞬間が永遠を変えるというシリーズの第四章の記事です。

神から与えられた真理、神についての真理である神学。これは教会のいのちのためにあります。イエスは、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)という真理を告白し従う弟子をつくることによって、教会を建て上げられます。弟子とは、イエスからいのちを得たことによってキリストの真理に従い、キリストの道を歩む人のことです。イエスはこう言われます。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31-32)。

大宣教命令によって、イエスは弟子たちに世界中で弟子をつくりご自身の教会を建てるよう命じ、彼らを派遣しておられます。では、弟子たちはどのようにして弟子をつくるよう命じられているのでしょうか。イエスはこの大仕事を驚くほど簡潔に、二つの点にまとめられました。それは、バプテスマを授けること、そして教えることです。このイエスの言葉をよく知っている人でなければ、この要約には多少の驚きを覚える人もいるでしょう。教えるという任務は納得するところですが、バプテスマを授けることが二つのうちの一つに含まれているということについては、意外だと感じられるかもしれません。ただし、意外である、という印象からこそ、それについて吟味し熟慮する機会が生まれるものです。このことがいかに適切で有用であるか、考えてみましょう。

弟子をつくるという任務には、二つの部分があります。弟子たちを加えることと、弟子たちを育てることです。弟子とは、バプテスマによって加えられ、人生を変える教えによって育てられる人です。

イエスはバプテスマについて、単なる水による儀式という狭い見方ではなく、そこに含まれる幅広い意味に注目するよう教えられました。これは、バプテスマのヨハネによる宣教の中にはっきりと見ることができます。ヨハネの宣教には、福音を宣べ伝えること(ルカ3:18)、悔い改めへと招くこと(3:3)、そして悔い改めにふさわしい実を求めること(3:8)が含まれます。バプテスマには、神の約束を宣べ伝えることと、その約束に対する正しい応答を求めることの両方が含まれるということです。バプテスマは、まさに弟子たちを引き入れ、信仰生活を始めるように呼びかけるものなのです。

バプテスマは神の約束であり、それを受けた人の信仰と献身を求めるものですから、この意味でのバプテスマは弟子となるための基礎として適切です。神が罪人に与えられるバプテスマの約束の中心は、神が彼らの罪を洗いきよめ、赦してくださることです。イエスが大宣教命令で、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けよと敢えて言われたのは、バプテスマの約束が三位一体の神から与えられ保証されているということを示すためでした。

16世紀に書かれ、何世紀にも渡ってオランダ改革派教会で使われてきたバプテスマの礼典式文には、三位一体のそれぞれの位格が特徴的な役割と約束を持つことがわかりやすく詳細に記されています。式文には、バプテスマの水が受洗する一人ひとりに何をもたらすかではなく、バプテスマの意味、そしてバプテスマを通して与えられる神の民に対する約束が宣言されています。バプテスマでは、父なる神が「私たちと永遠の恵みの契約を結び、私たちを神の子ども、神の相続人とされる」と約束しています。また、子なる神は、「私たちのすべての罪を御子の血できよめ、ご自身の死と復活の御業にあずからせ、それによって私たちを罪から解放し、神の御前に義と認められる」と約束しています。聖霊なる神は、バプテスマによって「私たちが永遠のいのちにおいて、選民の集まりの中で一点の汚れもなく立たせるまで、私たちの内に住まわり、私たちをきよめてくださる」ことを約束しています。このようなバプテスマの約束は、私たちの福音の希望の中心を宣言します。バプテスマは、単なる形式的な儀式でも、単に教会や一人の信仰者が行うことでもありません。「バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」(マルコ1:4)とあるように、バプテスマは第一に宣言された福音の約束を表す「目に見えるみことば」なのです。

このオランダ改革派教会のバプテスマの式文には、教会のために、バプテスマの神学が記されています。この書は、約束が宣言された神の側からのバプテスマの意味と、献身への呼びかけという人の側からのバプテスマの意味を示しています。この、献身への呼びかけは、実に力強く表現されています。

すべての契約には二つの部分がある。従って、我々は神によって、バプテスマを通して、この父、子、聖霊の唯一の神に結ばれる新しい服従の訓戒を受け、またその義務を負っている。我々は神に信頼し、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛する。我々は世のことがらを捨て去り、古い罪の性質を十字架につけ、敬虔に歩む。弱さゆえに、時に罪に陥ることがあれば、決して神の慈しみを諦めず、罪にとどまり続けない。なぜなら、バプテスマは私たちが神と永遠の契約を結んでいることを示す印証であり、疑う余地のない証であるからである。

弟子になるということは、この約束を聞き、それを信じて生きることです。

バプテスマは必然的に私たちを教会に繋げます。バプテスマは、それを授ける人が必要である以上、個人で行うことはできません。バプテスマは教会によるものであり、教会に加えられるためのものです。クリスチャン生活は孤独なものではなく、信仰のコミュニティーの中で営まれます。キリストはご自身の教会を建て上げられ、その中で私たちは、形式的な繋がりを持つだけでなく、弟子としての生活の重要な部分として教会の一員であるべきなのです。

イエスはバプテスマを授けることを命じるとともに、神の民の生活を築き上げるための教えを示しておられます。イエスは地上での宣教の働きを通して、弟子たちが何を知るべきか、どのようにイエスのために生きるべきかについて、真理を教えられました。イエスの使徒たちは、主の完全な権威をもって、教え続けました。イエスの地上での宣教による教えと、使徒たちによって伝えられたイエスの教えは、キリストの教会のために集められ、聖書という形で保存されました。キリストに忠実に従う教会は、聖書からその神学を教えます。それは、クリスチャンである私たちが真理を知り、真理に生きるようになるためです。

この「教える」という任務は、大変な仕事です。イエスが教会に委ねられたのは、みことばの基本的な真理を教えることでも、いくつかの真理を教えることでも、多くの真理を教えることでもありません。イエスの命じられたすべてのことを教えるよう、私たちに委ねられたのです。真理に優先順位をつけることはできても、いずれの真理をも排除する権利は私たちにありません。イエスは私たちに、主の教えを包括的に知ること、そして、主のために聖別された、完全な人生を送ることを求めておられます。

教会が自ら犯しうる最も深刻な過ちの一つは、聖書の教えを改ざんすることです。これは、イエスの教えの一部を拒否する、歪める、無視する、または本来無いものを付け加えることによって起こります。自由主義神学に立つ教会は、知的にも道徳的にも彼らの思いに反する教えを排除しています。福音主義神学に立つ教会もまた、キリスト教を未信者にとってより魅力的なものにしようとする余り、単純な、あるいは合理的な福音だけを教えていることが少なくありません。

それとは対照的に、改革派教会は教えに関して徹底的に聖書的であるよう努めてきました。この姿勢は、教理と倫理に満ちた信仰告白基準にも反映されています。

教会では、牧師と信徒の双方が徹底した教えに責任を持っています。牧師は何を教えるか、そしてその教えが神の民を本当の意味で強くするために、どのように伝えるべきか、綿密に準備すべきです。みことばは教会の真理の宝庫であり、牧師はそれを教えなければなりません。会衆をただ楽しませたり、大衆心理学者のようになったりすべきだというプレッシャーに対抗しなければなりません。

神の民である私たち信徒、特に民主主義文化の中に生きる私たちもまた、重大な責任を負っています。信徒は、牧師が神のご計画のすべてを教えるよう励まし、そのような教えを進んで受け、支えなければなりません。そうでなければ、教会は著しく幼いままになってしまうでしょう。パウロはコリントの教会に警告を与えています。「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです」(一コリ3:1-3)。同じ議論はヘブル人への手紙にも見られます。

…私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。(5:11-14)

幼い教会や幼いクリスチャンは肉の考えに未だ囚われているため、聞くことに対して鈍くなっているのです。成熟した教会は進んでみことばに耳を傾け、真理を見極める力と義を学び、訓練されます。教会に弟子が加えられ、真理のうちに成長するためには、教会に神学がなければなりません。リゴニアは、キリストの弟子たちが真理のうちに成長することができるよう、信仰に忠実なコンテンツを提供することに尽力しています。

弟子としなさい、というイエスの大宣教命令は、神の選民が一人残らず教会に加えられるそのときまで、完全に成し遂げられることはありません。困難な状況であっても、私たちにはやるべきことがたくさんあります。しかし、その召命に応え続けるために、イエスは偉大な約束を与えてくださっているではありませんか。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

W・ロバート・ゴッドフリー
W・ロバート・ゴッドフリー
W・ロバート・ゴッドフリー博士は、リゴニア・ミニストリーズの専属講師であり、Westminster Seminiary Californiaの名誉学長ならびに同校の教会歴史の名誉教授である。彼はリゴニアによる『A Survey of Church History(教会歴史の概要)』全六回シリーズの講師も務めた。著書も多く、『God’s Pattern for Creation』、『Reformation Sketches』、『An Unexpected Journey』、『Learning to Love the Psalms』などがある。