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2024年07月25日(木)ヨシュア記について知っておくべき三つのこと

1. ヨシュア記は根本的に神の誠実についての書物である
クリスチャンの方にヨシュア記について知っていることを尋ねるとしたら、おそらくほとんどの人がエリコの戦いの場面を挙げるでしょう。城壁が崩れ落ちたエリコの戦いは、ヨシュア記に記される征服の物語の中でも重要な位置を占めています。ヨシュア記は、軍事的勝利の物語と、その後に行われる、イスラエルが征服した土地の分配の記述で構成されています。しかし最終的に、ヨシュア記で本当に描かれているのは、神と神の誠実です。主がアブラハムにカナンの地を約束され、神の民はその最初の約束からカナンを所有するまでに大きな遅れを経験したものの、主のことばは一つも地に落ちることはありませんでした(ヨシュア23:14)。
神が約束されたすべての地がイスラエルに与えられたあとの、21章の締めくくりの一節ほど、この書物の要点を完結にまとめた言葉はないでしょう。「主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した」(ヨシュア21:45)。ヨシュア記では、ヨシュアの他にも、カレブやエルアザルなど模範となる人物が重要な役割を果たしています。またこの書物には、歴史上著名な戦いとなった壮大な戦いも含まれています。しかし最終的には、そこには神と神の信頼性が描かれているのです。
2. カナン人の滅亡は民族的優位性の表現ではなく、罪に対する神のさばきである
ヨシュア記における最大の倫理的疑問は、カナン人の滅亡です。例えば、イスラエルがエリコの壁のがれきをよじ登って攻め入ったとき、人や動物に関わらず、彼らは町の中に一人の生存者も許しませんでした。イスラエルの偵察隊を隠したラハブとその家族のみ、例外として生き残ったのです。多くの批評家はイスラエルによるこのような残虐行為を非難し、さらにはこのような死を要求した「旧約聖書の神」は血に飢えた無慈悲な神だと訴えてきました(申命20:16-18参照)。当然、イスラエルが残した広範囲にわたる破壊を軽く捉えるべきではありませんが、その背後にある厳粛な神学的および倫理的理由を、私たちは真剣に理解するよう努めなければなりません。ホロコーストやルワンダの大量虐殺など、私たちがよく知っている虐殺の歴史とは対照的に、神の民は人種や民族の優位的感覚から敵を殺したのではありません。イスラエルの兵士たちは、唯一のまことの神の御手によるさばきの道具として、その剣を振るったのです。
イスラエルの主なる神は聖なる方であり、罪を罰しないままにすることはできません。神は忍耐をもって、カナンの民を何世紀にもわたり生かしておられましたが、ついにアモリ人の咎が満ち(創世15:16参照)、それ以上の猶予は与えられませんでした。神の聖なる基準は、イスラエルもまた、神に対する神聖なる献身を怠るなら同じ罰の脅威に直面することを意味します(出エジ22:20参照)。実際、一人のイスラエル人とその家族とがカナン人と同じ末路をたどりました。アカンが神の明確な命令に背き、エリコの戦利品の一部を取ったことにより、アカンは自分と家族に死と破滅をもたらし、国にも敗北をもたらしました(ヨシュア7章参照)。ヨシュア記で展開されるできごとは、神が罪を決して軽く扱われないことを明白に証ししています。
さらに聖書を読み進めると、カナン人の滅亡は、キリストが再び来られるときに起こる終わりの日のさばきの前兆であることがわかります(黙示6:12-17; 19:15-16; 19-21参照)。その日、誰にとっても唯一の希望は、私たちのために神の怒りをその身に負ってくださったお方であるイエスを知ることです(一ペテロ2:24)。
3. 占領地の配分の詳細は、さらに大いなるものを指し示している
ヨシュア記の著者は、イスラエルの部族のあいだで分配された土地の詳細を説明するために書物のかなりの分量を費やしています。13-19章は、この川の端、あの谷の真ん中、あっちの丘からの坂など著者の説明が続くため、読むのはかなり退屈に思えるかもしれません。しかし、占領地の地理的な詳細は神にとって重要であり、その土地に関する広範囲な説明を霊感によって記述させたのは、その土地が神にとって尊いものであったからです。なぜ神はこの土地をそれほどまでに大切にされたのでしょうか? それは、その土地が、キリストと新しい創造の栄光を描くために神が選ばれた場所だったからです。
幕屋やいけにえのシステムなど、旧約聖書に多く見られる宗教的要素と同じように、土地もまた、福音の真理の型でありそれを描く図式です。アダムとエバが罪を犯したとき、神は彼らを地上の楽園から追放し、その地を呪われました。しかしそれは、神が創造された良いものに対する計画が終わったことを意味するのではありません。神は、イエスが戻られるときに、天と地とを新しく造り変えられます(二ペテロ3:10-13; 黙示21:1)。カナンの地は、エデンの園と新しい創造のあいだに位置し、楽園が垣間見られる乳と蜜の流れる地として、いわば来るべき永遠の楽園を思い起こさせ保証する頭金として、存在しているのです。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。