「聖書のみ」とは?
2024年12月28日(木)
「聖書のみ」とは?
2024年12月28日(木)

「キリストのみ」とは?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「五つのソラとは?」というシリーズの第四章の記事です。

宗教改革の時代であれ、現代であれ、どんな時代に生きていても、私たちは偶像を通してキリストの美しさを汚す誘惑に駆られています。ジャン・カルヴァンは、それはまさに人間の本性だと言いました。「人間の才能は……永久的に偶像の製造工場である。……人間の精神は、傲慢と無謀とをぎっしり詰めこまれていて、自分の頭で神を考え出すことまで敢えてする。」

「キリストのみ」の教理は、宗教改革の時代に強調されました。キリストを貶めている教会、すなわちキリストだけに属する特権を横領している教会の問題を、宗教改革者たちが認めたからです。この問題は、私たちの救いにおけるキリストの絶対的な至高性の輝きに影を落とすものはすべて排除する必要があることを宗教改革者たちに印象づけました。宗教改革者たちはこの問題をはっきりと認識し、現代にも応用できる聖書的かつ神学的な解決策をもたらしました。

強い教会の問題

16世紀初頭、西ヨーロッパでは教会が人々の生活の中心にありました。過去数世紀にわたり、ローマ・カトリック教会は「救われた者の集団」から「救いのための集団」へと変わり果てていました。

「救いのための集団」とは、何を意味するのでしょうか。ルターは、当時の人々が、ローマ・カトリック教会の秘跡制度の奴隷となり、神の御前での立場をキリストに求める代わりに教会に求めていたことを認識していました。キリスト、マリア、そして聖人たちのおかげで、カトリック教会には恵みの貯蔵庫があると考えられていたのです。司祭はその唯一の分配者であり、信者は司祭のもとに来なければなりませんでした。

1520年、ルターは『教会のバビロニア捕囚』を著し、その中で彼は教会の秘跡制度を批判しました。ルターはこの制度が、神の民を生まれてから死ぬまで囚われの状態にしていて、自らのバビロンとなっていると述べました。というのも、カトリック教会では、人は生まれて間もなく幼児洗礼を受け、青年期には堅信を受け、成人して結婚し、死の床で終油の秘跡(病人塗油の秘跡)を受けるからです。これらの秘跡はそれぞれ、叙階とともに、司祭によって執り行われるときに恵みをもたらすと考えられていました。与えられた恵みは、司祭への定期的な罪の告白と、司祭のミサで行われる聖体拝領(聖餐)という、さらに 2 つの秘跡によって、生涯を通して補われるとされていました。

キリスト教徒は、生まれてから死ぬまでカトリック教会に依存し、救われるために必要な恵みを受けるために秘跡に縛られていたのです。

ルターは聖書を見て、秘跡(聖礼典)は二つしかないことを確認しました。彼の教えの影響は、カトリック教会とその聖職者から、キリストのみへと焦点を移すことでした。救いは、いわば恵みの水道の蛇口をひねるかのように司祭たちの手によって与えられるものではなく、一人のお方、すなわち神の御子であるイエス・キリストのみによって与えられるものだということです。

この華美な秘跡論を取り払ってしまうと、恵みを得るためにどこに行けば良いのかと問う人もいたかもしれません。もしカトリック教会が大きな間違いを犯していたのなら、信者たちはどうすれば良かったのでしょうか?ルターのような改革者たちは、彼らをどこに導くのでしょうか?

ヴィッテンベルクの市教会(シュタットキルヒェ)には、ルターが説教壇に立って説教している有名な絵画があります。彼は片手を挙げて人差し指を伸ばし、十字架上のキリストを指し示しています。クリスチャンは、キリストだけに目を向けるべきなのです。

ルターが「十字架だけが我々の神学である」と言ったとき、それはローマ・カトリック教会のシステム全体に対する侮辱でした。「キリストのみ」が教会改革の全体的な推進力となり、人が作り上げた伝統による汚れを一掃しました。

したがって、ルターや他の宗教改革者たちは、私たちが神の御前でどのように義とされるかに関する有害な教えの影響を正そうとし、積み重ねられてきた伝統を少しずつ取り除き、キリストと、キリストの人格と御業がいかに私たちの信仰の中心であるかに焦点を当てました。

強い救い主による解決策

強い教会の問題に対する改革者たちの答えは、権威ある聖書の中に見出される、強い救い主です。ヨハネの手紙一第1章1-3節を読んでみましょう。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証して、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

一方で、当時の宗教改革者たちはローマ・カトリック教会とキリスト論的な対立を抱えていたわけではありません。つまり、イエス・キリストは一つの人格の中に二つの本性を持つお方、すなわち真の神であり真の人であられるという考えは、宗教改革者たちが自らの教えの中で推し進めた古典的なキリスト論でした。

ヨハネが言うように、この御子は永遠の昔から御父と共におられましたが、私たちの手によっても触れられました。神であり人である、ひとりの御子なのです。しかし、この美しいキリストは、人々がこの方を唯一の救いの源、救いのすべてとして理解するために、新たに提示される必要がありました。

宗教改革者たちは、説教や著作の中で絵筆を取り、救いの全体像をキリストのみで描き上げるかのように努めたのです。その描かれた絵の中にローマ・カトリック教会やその司祭たちが加わる余地は、最も小さな筆の一画すらなかったと言えるでしょう。そのような一画を許すことは、救いの絵を汚すことになるからです。

では、宗教改革者たちはキリストの絵を完成させるためにどこに向かったのでしょうか?それぞれの「ソラ(のみ)」は、最初の「聖書のみ」に基づいています。聖書だけが、私たちがキリストの御姿を見出すために向かう場所です。ですから、彼らはヨハネの手紙第一のような箇所に立ち返りました。その書がキリストの描写で始まり、偶像を避けるようにという警告で終わることを知っていたからです。彼らはコロサイ人への手紙2章9節を読みました。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」完全に受肉された神の御子、すなわち真の神であり真の人であられる御子こそが、私たちの唯一の救いの希望です。神がそのすべての力を尽くして私たちを救うために、神の強力な仲介者が隔たりを埋めてくださるのです。キリストには、完全な人性があるだけでなく、「神の満ち満ちた後性質」もあります。宗教改革の福音とは、まさにこれを掲げることであり、私たちの救いが完全なものとなるために、キリスト・イエスにあるすべてのことを告げ知らせることなのです。

十字架の神学

もし私たちが自分たちの空虚な行いや偽りの仲介者を通して、救いの絵に付け加えるなら、私たちは「十字架の神学」ではなく、ルターの言う「栄光の神学」を説くことになります。それは結果的に、私たちの力強い救い主としてのキリストから栄光を奪うことになります。

これは今日の教会にも、なおも存在する誘惑ではないでしょうか?中世末期のローマ・カトリック教会とは異なる形態をとるかもしれないとはいえ、間違いなく存在しているでしょう。

私たちは常に「栄光の神学」を追い求め、聖書の中で与えられている傷のない救いの絵を汚す誘惑にさらされています。栄光の神学は、神を求めながらも十字架を迂回し、神に到達するために人間の手段を取り入れます。「キリストのみ」は、16世紀に必要だっただけでなく、21世紀においても必要です。私たちと神との関係の仲介者はキリストのみであるという事実を、私たちは自分自身に強く訴えなければならないからです。


 1カルヴァン、J. 著、『キリスト教綱要』(渡辺信夫訳)1963 年、新教出版社。I.11; pp. 125-26.


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

D・ブレア・スミス
D・ブレア・スミス
D・ブレア・スミス博士は、ノースカロライナ州シャーロットにあるReformed Theological Seminaryで組織神学の助教授を務めている。