
「キリストのみ」とは?
2025年01月04日(木)
「恵みのみ」とは?
2025年01月14日(木)「信仰のみ」とは?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「五つのソラとは?」というシリーズの第五章の記事です。
1571年、エリザベス1世の改革派イングランド国教会は『39箇条』を採択しました。第11条は、義認の教理に関してプロテスタントの立場を明確にしています。
私達が神の前で義とされるのは、ただ、私達の主てあり[訳註:引用元の表記通り。正しくは「主であり」]、救主であるイエス・キリストの功績のゆえに、信仰によって義とされるのであって、私達自身の業や価値によるのではない。したがって、私たちが信仰によってのみ義とされるということは最も健全な教理であって、義認に関する説教の中で更に広く述べられているように慰めに満ちているものである。
「信仰のみ」あるいは sola fide とは、どういう意味でしょうか?これを理解することは、私たちの霊的な健康と幸せのために「健全」であり有益です。それはまた、霊的な葛藤の中にある私たちにとって「慰めに満ちているもの」でもあります。
罪人はどのようにして義とされるのか?
第一に、私たちは義認の教理、つまり「私達が神の前で義とされる」という教理に関連して「信仰のみ」について話しています。どうすれば、罪人である私たちが、罪のない聖なる神の前で義とされるのでしょうか。これは最も古くからある疑問の一つです。「人は神の前に正しくあり得ようか。/その造り主の前にきよくあり得ようか」(ヨブ4:17)。結局、使徒パウロは後にこの普遍的な真理を宣言しています。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず……」(ローマ3:23)。あなたや私のような罪人が神の前で義と認められる方法は「転嫁」、つまり神ご自身によって「私達は神の前で義とされる」ということです。
イエス・キリストの功績
第二に、聖なる義なる神が、私たち罪人を義と「認める」ことなどできるのでしょうか。神は、子どもが自分の部屋を掃除するときのように、私たちの罪をただ絨毯の下に隠してその存在を忘れてしまうことはできません。神はきよく、公正で、義なる方です。罪は罰せられなければなりません。神が私たちを義と宣言することができる根拠は、「私達の主てあり[訳注:正しくは「主であり」]、救主であるイエス・キリストの功績のゆえに」ということに他なりません。イエスは、私たちが破った律法を私たちのために成就し、私たちのための犠牲と償いのために最も尊い血を流し、私たちに対する神の怒りと憤りを遠ざけてくださいました。神の無限の英知において、神の正義と憐れみがキリストの十字架上で出会ったのです。その場所で、神は私たちを罪に定めないために、正義によって御子を罪に定められました。そしてその場所で、神の憐れみが私たちを神の怒りから救い出しました。
このように、私たちは「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められ」ました。「神はこの方を、……血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。……すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため」です(ローマ3:23–26)。聖なる義なる神が、どのようにして私たち罪人を義と「認める」ことができるかを否定的に述べると、それは「私達自身の業や価値によるのではない」ということです。私たちは自分の行いによって義と認められることはできません(ガラテヤ2:16)。前述の説教の言葉によれば、「この義認は私たちにとって無償であるが、それがまったく無償で私たちに与えられたわけではなく、まったく身代金が支払われていないわけではない」のです。
確信と平安
第三に、私たちに対する、キリストの義に基づく神の宣言を、私たちは「信仰を通して」、より正確には「信仰のみを通して」受け取ります。信仰は、キリストを受け取るのです。それは私たちが義とされる手段であり、義認の理由ではありません。イエスがその理由なのです。したがって、真実で、義認をもたらす信仰は、聖書とそのすべての教理を信じるだけでなく、「神の憐れみ深い約束に確かな信頼と確信を持つこと」でもあります。 言い換えれば、信仰は単なる知識ではなく、その知識に同意することでもありません。悪霊ですら、この「信仰」を持っています(ヤコブ2:19)。この種の「信仰」は、あなたが罪の中になおも浸り続けることを許します。
「では、どうして人は、不義の中に生き、行いによってキリストを否定していながら、この真の信仰、すなわちキリストの功績によって、その人の罪が赦され、神の好意を得て和解し、キリストによって天の御国の一員となるという、神にある確かな信頼と確信を持つことができるだろうか。」 2
だからこそ、プロテスタントである私たちは、この信仰のみによる義認が意味するのは、この義認の信仰が真の悔い改め、希望、愛、神への恐れなしに私たちの中に単独で存在するということではないと、常に主張する必要があります。しかし、私たちが神によって神の前に義と認められるということに関しては、「信仰のみ」は、私たちの行いとは関係なく、神が憐れみ深く私たちを義と認めたことを意味します。
「信仰のみ」が「何」であるかは、それが「なぜ」重要であるかにつながります。覚えておいてください。これは「健全」であり、「慰めに満ちているもの」です。この教義の利益は、「キリストの真の栄光を前進させ、示し、人間の虚しい栄光を打ち砕くこと」です。私たちが神から与えられる無限の賜物について考えるとき、たとえそれに値しない者であっても、へりくだり、ひざまずいて神を崇める思いになるでしょう。「信仰のみ」による義認は、真の信者を霊的な怠惰に導くのではありません。
私たちの意志、心、力、能力のすべてを神に捧げることである。すべての良い行いにおいて神に仕え、生涯に渡って神の戒めに従い、すべてのことにおいて、肉欲的な快楽や虚栄心ではなく、神の栄光と名誉を求め、これほどに憐れみ深い神、愛ある救い主を言葉や考えや行いで進んで怒らせることを常に恐れること……神のために動き、常に喜んで隣人に尽くし、できる限り、あらゆる努力をもって、すべての人に善を行うよう努めることである。これらが真の信仰の実である。すなわち、すべての人に対して、私たちのできる限りの良い行いをすること、そして何よりも、すべてのことにおいて、神の栄光を増し加えることである。私たちはこの神によってのみ、聖化、義認、救済、贖罪を受けるのである。栄光と賛美と名誉が、限りなく、神にあるように。アーメン。
1 引用元:www9.big.or.jp/~grace/voxviva/seikoukai.html
2 Thomas Cranmer, “A Sermon of the Salvation of Mankind by Only Christ Our Saviour, From Sin and Death Everlasting,” in Book of Homilies: A Critical Edition, ed.Gerald Bray (Cambridge: James Clarke & Co., 2015). 日本語は訳者による。
3 同上。日本語は訳者による。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。