神学と教会
2022年06月21日(木)
神学は神の栄光のために
2022年06月24日(木)

神学と私たちの生活

編集者注:これはテーブルトーク誌の「今のこの瞬間が永遠を変える」というシリーズの第五章の記事です。

ピューリタンのウィリアム・パーキンスは、神学を「永遠に祝福されて生きるための科学」と定義したことで有名です。同時代のウィリアム・エイムズは、パーキンズを真似て、神学を「神のために生きる科学」と呼びました。神のために生きることは、すべてのクリスチャンにとっての義務であり喜びです。それゆえクリスチャンなら誰しも、神学者(しかも良い神学者)でなければなりません。では、神学と私たちの生活はどのような関係を持つのでしょうか。それは、パウロの次の3つの事例に明確に表れています。

一つ目は、ピリピにて。名前を挙げられている二人の女性がピリピの教会で公然と論争していることについて、パウロは取り上げなければならないと感じています(ピリピ4:2)。君子危うきに近寄らず、とはいうものの、パウロは使徒として、また教会の評判と証がかかっているため、この問題を見なかったことにするわけにはいかなかったのでしょう。

では、パウロはどうしたか。彼は、神の永遠の御子の受肉という、最も重厚な神学を持ち出しました。「神の御姿」であられるイエスは、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」、とあります。これはつまり、イエスが受肉されたことの卑しさを否定するために神性に固執したのではない、ということでしょう(ピリピ2:6)。325年に作成されたニカイア信条に、イエスは「まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、御父と同質にして、万物は主にあって成れり」とあるにも関わらず、イエスは「ご自分を空しくして、しもべの姿となり」ました(2:7)。この「空しくして」という言葉は神学的な危険をはらんでいるため、多くの翻訳では直訳を避け、代わりに婉曲的な表現を用いています(例えば、KJVでは「made himself of no reputation(ご自分を無価値とされた)」など)。この箇所はより詳しく説明されるべきですが、ポイントを強調しておく必要があります。パウロはピリピの人々(そしてあなたや私)がキリストの思いを持ち、それを示すことを望んでいるのです。「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」(2:4-5)。受肉という壮大な教理は、ここでは謙遜を示すために取り上げられています。この教理はすなわち「敬虔にふさわしい、真理」である、ということです(テトス1:1)。

二つ目は、コリントでのこと。パウロは、コリント人が苦しんでいるエルサレムの教会に対して惜しみない愛を示して欲しいと思い、それは使徒が以前から抱えていた問題でもありました(二コリ8-9章)。パウロは、どのように人々を駆り立てれば、寛大な献金を促すことができるかと思案しています。そのような献金は特に、彼らの信仰の「純粋さ」を証明するものです(8:8, 24)。ここでのパウロの言葉は、ただ彼らの虚栄心に訴えかけているように聞こえる部分もあります。つまり、コリントの人々はマケドニアやアカイアなど北の教会に負けたくなかったようです(9:1-5)。しかし、パウロの議論のキーポイントは、神学的なものです。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富むものとなるためです」(8:9)。ここでも再び、受肉は実践的な問題のために用いられているのです。

三つ目は、ローマにて。福音の性質とその輪郭とを11章にわたって概説したパウロは、実践的な敬虔の形態を明白にしています。それは、あなたがた(ローマの教会にいるクリスチャンたち)は「心を新たにすることで」変えられる、ということです(ローマ12:1-2)。パウロによる、ローマ人への手紙という名のマニフェストは、実践的な信仰のためのものです。それは、兄弟愛を示すこと(12:9-10)、怠惰を取り除くこと(12:11)、苦難の中で忍耐を示すこと(12:12)、聖徒たちの必要を満たしもてなすこと(12:13)、自己中心的な態度で孔雀の羽を立てない(見せびらかさない)こと(12:16)、高潔な行いをすること(12:17)、隣人とできるだけ平和に暮らすこと(12:18)、敵を養うこと(12:19-20)、そして不親切な行いに報復しないこと(12:21)。これ以上実践的な教えがあるでしょうか。

しかし、パウロは救い主の中に見た知恵を、ただ実践しているに過ぎないのです。神学はどこまで実践的でしょうか。山上の説教を思い起こしてみてください。これは日常生活を包括的に取り扱ったイエスの教えです。イエスの教えられる聖さは、物質的なものでした。聖化は単に心の中で起こるのではなく、身体の中で起こります。イエスは、目や手、足や唇について語られます。つまり、私たちは自分の身体を使って罪を犯すことも、聖さを表現することも可能だということです。例えば、情欲についてはどうでしょうか。イエスは、罪の行為に使うくらいなら、右目をえぐり出し、右手を切って捨てなさいと教えられました(マタイ5:27-30)。

あなたは不安を抱えていますか?あなたは日々の糧について心配をし、それが天の父なる神への信頼が足りないためだと感じますか?もしそうなら、今日も庭に飛んでくる鳥たちを見てください。健康で丈夫そうな姿をしているではありませんか。神はその鳥たちを養ってくださいます。そしてあなたは、その鳥よりもずっと価値のある存在なのです(マタイ6:34)。あなたは、他人の罪を見て喜び、それを誇張するようなさばき方をしていませんか?もしそうなら、「神の恵みがなければ、私があそこに行く羽目になっていた」と自分自身に言い聞かせましょう(マタイ7:16)。人にしてほしいと思うような接し方で、同じように人にも敬意を払って接しましょう。「黄金律」を守ることです(7:12)。

主の導きについても考えてみましょう。イエスはこう約束されます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、叩く者には開かれます」(7:8)。詩篇23篇には、「主は…伴われます」(ESVなどでは「he leads me([主は]私を導かれます)」)(23:2)との約束があります。この動詞は、私たちの天の父なる神、羊飼いであり王であられる神が、私たちの歩む人生が主の栄光をもたらすものであるように、正しい判断をするための知恵と思慮深さを与えてくださることを示しています。父なる神は私たちを愛していてくださいます。その愛は決して絶えることがありません。神の契約は、神のことばによって保証されているのです。主は私たちを「義の道」(23:3)に導かれ、不義の迷いの道には導かれません。主は決して私たちを不作法な行為や罪へと導くことはありません。その道に入ってしまうのは、みことばに耳を傾けず、知恵を求めて祈らず、最善とは言えない選択に屈することによってもたらされる結果です。

(聖書の)明白性と摂理

神学はどこまで実践的でしょうか。聖書の明白性と摂理という二つの教理について考えてみましょう。

(聖書の)明白性とは、「一般の」クリスチャンが自分で聖書を読み、正しい手段(説教、バイブルスタディガイド、メンター、注解書、テーブルトーク誌など)を用いて、「救いのために知られ…る必要がある事柄」を「十分に」(必ずしも包括的ではないが)理解できるようになるという真理を表す神学用語です(ウェストミンスター信仰告白1.7)。もちろん、この論点が争われるようになったのは、中世の教会において、聖書がほとんど手に入らず、聖職者だけが理解できる言語で書かれ、大衆を教皇や教会の権威の束縛に縛りつけておくための策略として使われていたという歴史のためです。聖書の明白性の教理は、私たちが聖書を愛し、日々吟味して読み、その教えを目に見える具体的な行動に移す実践によって成長するためにあります。この教理は、ルカが「非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)と記したベレヤの気高い信徒たちのようになることを私たちに教えてくれる教理です。

では、摂理とは何でしょうか。このことばは直接聖書には出てきませんが、基本的なキリスト教信仰の真理を表しています。ウェストミンスター信仰告白はこのように定義づけています。

すべてのものの偉大な創造者である神は、じっさい、その最も賢く最も聖なる摂理によって、すべての被造物と行動と事物を、最大から最小に至るまで、その誤ることのない予知と、御自身の意志の自由で不変の意向とに従い、自らの知恵と力と義と慈しみと憐れみの栄光が讃美されるように、支え、導き、整え、統治される。(5.1)

信仰告白で摂理について書かれている章では、より難解な問題にも触れていますが(歴史における神の主権のあり方、自由意志や悪との関係など)、その基本的な要点は、神が、物事の起こる前に、それが起こるようにと望まずに起こるものはないという保証です。

簡潔に言えば、この摂理の定義は、パウロがローマ人への手紙8章28節で述べていることを表したものです。「すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」初めての子供を失った母親、悪性腫瘍があることを知った姉、初めての就職面接に失敗した大学卒業生など、その他にも様々な状況に置かれている人々にとって、神の摂理は、私たちがすべての答えを持っていないとしても、神は持っておられるということを思い起こさせます。そして、結局のところ、それが最も重要なことなのです。この教理は、たとえ人生は嵐の中にあっても、私たちに深い安らぎと穏やかな心を与えてくれます。これ以上実践的な教理はありません。私たちはみな、程度に違いこそあれ、神学者です。本当の問題は、私たちが良い神学者であるかどうかということです。私たちは神の栄光のために、神に関する知識を生活のあらゆる側面で用いているでしょうか。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

デレク・W・H・トーマス
デレク・W・H・トーマス
デレク・W・H・トーマス博士は、サウスカロライナ州コロンビアのFirst Presbyterian Churchの主任牧師、Reformed Theological Seminaryの組織神学と牧会学の総長教授を務める。彼はリゴニア・ミニストリーズの専属講師で、著書も多く、『How the Gospel Brings Us All the Way Home』、『Calvin’s Teaching on Job』などがある。また、シンクレア・B・ファーガソン博士と『Ichthus: Jesus Christ, God’s Son, the Saviour』を共同執筆している。