「恵みのみ」とは?
2025年01月14日(木)
「恵みのみ」とは?
2025年01月14日(木)

「神にのみ栄光あれ」とは?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「五つのソラとは?」というシリーズの第七章の記事です。

「神にのみ栄光あれ」は、プロテスタント宗教改革から生まれた標語で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがすべての作品に使った言葉です。彼はそれぞれの楽譜の下にSDG(Soli Deo Gloriaの頭文字)を記し、神だけが創造と贖罪の驚くべき御業に対して栄光を受けるべきお方だという考えを伝えました。16世紀において、救いをめぐる論争の中心にあったのは恵みに関する問題でした。

それは、人間が恵みを必要とするかどうかの問題ではなく、どの程度恵みが必要なのかという問題でした。教会はすでにペラギウスを非難し、恵みは救いを促進するが、救いに絶対的に必要というわけではないという彼の教えを否定していました。それ以来、半ペラギウス主義は、恵みがなければ救いはないということを常に教えてきました。しかし、半ペラギウス主義やアルミニウス主義の救済論で考慮される恵みは、有効な恵みではありません。救いを可能にする恵みではありますが、救いを確実にする恵みではないのです。

神は種を蒔く人

種蒔きのたとえ話を見ると、救いに関して、救いをもたらすために率先して働かれるのは神であることがわかります。神は種を蒔く人です。蒔かれる種は神のことばという神の種であり、その結果生じる収穫は神の収穫です。神は、このプロセス全体を始めたときに収穫しようと意図したものを収穫されます。神は、道にあるいばらや石などの勝手な気まぐれに収穫を任せたりはしません。ただ神のみが、ご自身のことばを決められた分だけ確実に良い地に落ちるようにされるのです。このたとえ話を解釈するうえでの重大な誤りは、良い地が、堕落した罪人たちの良い態度、つまり神の先立つ恵みに肯定的に反応し、正しい選択をする罪人たちであると想定することです。古典的な改革派の理解では、良い地とは、神によって蒔かれた種を受け入れる準備ができている地であり、神のみが、種の発芽のためにその地を準備されるというものです。

半ペラギウス派やアルミニウス派の信者が実際的なレベルで直面しなければならない最大の疑問は、なぜ自分は福音を信じて自分の人生をイエスに献げることを選んだのか、隣人も同じ福音を聞いたのにそれを拒否することを選んだのはなぜか、というものです。この疑問には、さまざまな答えが挙げられてきました。ある人が福音とキリストに肯定的に応答し、別の人がそうしなかった理由は、前者が後者よりも賢かったからではないかと推測できます。もしそうであれば、知性は神の賜物であるため、究極的に救いを提供するのは依然として神であり、福音を拒否した隣人には神が同じ知性を与えられなかったと説明できるでしょう。しかし、その説明は明らかに不合理です。

また別の可能性も考慮しなければなりません。ある人が福音に肯定的に応答し、隣人が応答しなかったのは、応答した人のほうがより良い人間だったからである、ということでしょうか。つまり、正しい選択、良い選択をした人は、隣人よりも正しい人であったということになります。この場合、肉(人間的な力)は何かの益をもたらしただけではなく、すべての益をもたらしたのです。これは、大多数の福音派のクリスチャンが抱いている見解です。つまり、彼らが救われ、他の人々が救われない理由は、自分たちが神の恵みに対して正しい応答をしたのに対し、他の人々は間違った応答をしたからだ、というものです。

ここでは、誤った応答と正しい応答という対比だけでなく、悪い応答と良い応答という対比についても話すことができます。もし私が悪い応答ではなく良い応答をしたために神の国に入ったのであれば、私は誇るべきものを持っていることになります。それはすなわち、神の恵みに対して良い応答をした私自身の「善」です。私が今ここに述べた疑問に対して、「私がクリスチャンである理由は、私が隣人よりも優れているからです」と答えるアルミニウス派のクリスチャンに会ったことはありません。彼らはそのような言い方を嫌がるでしょう。しかし、彼らはこの含意を否定しつつも、半ペラギウス主義の論理はこの結論に至らざるを得ません。もし最終的な分析において、私がクリスチャンで、他の人がそうでない理由が、私は神の救いの申し出に対して適切な反応を示したのに対し、他の人はそれを拒否したことであるならば、抵抗し難い論理として、私が良い応答をし、私の隣人は悪い応答をしたということは確かです。

新生は信仰に先立つ

改革派神学が教えるのは、クリスチャンは正しく応答し、クリスチャンでない人は間違った応答をすることが、紛れもない事実であるということです。しかし、クリスチャンが良い応答をする理由は、神がその主権的な選びにおいて、選ばれた者の心の性質を変え、良い応答をもたらすからです。キリストに対する私の応答について、私は何一つ誇ることはできません。神は私の救いを始めただけでなく、種を蒔いただけでなく、聖霊の力によって私を新生させ、それによって種が私の心の中で確実に発芽するようにしてくださったのです。この新生は、種が根を張り、成長するために必要な条件です。だからこそ、改革派神学の中心には、新生が信仰に先行するという原理が響き渡っているのです。それは、すべての半ペラギウス主義者が拒否する救いの公式であり、救いの順序です。彼らは、霊的な死という堕落した状態にある中で、信仰を働かせ、そして新しく生まれかわるという考えを固く信じています。彼らの見解では、聖霊が彼らの魂の性質を変えて信仰に導く前に、彼らは福音に応答します。それが起こるなら、神の栄光は共有されなければなりません。半ペラギウス主義者は、「神のみに栄光があるように」と真摯に言うことはできません。半ペラギウス主義者にとって神は恵み深いお方かもしれませんが、神の恵みに加えて、私の応答という働きが絶対に不可欠です。この場合、恵みは有効ではなく、そのような恵みは、結局のところ、本当の意味での救いに至らせる恵みではありません。しかしながら、救いは初めから終わりまで主によるものです。当然、私は信じなければなりません。私は応答しなければなりませんし、キリストを受け入れなければなりません。しかし、私がこれらのいずれに対しても「はい」と言って肯定的に行動するためには、まず私の心が、聖霊なる神の主権的かつ有効的な力によって変えられなければならないのです。神のみに栄光がありますように。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

R・C・スプロール
R・C・スプロール
R・C・スプロール博士は、リゴニア・ミニストリーズの設立者であり、フロリダ州サンフォードにあるセント・アンドリューズ・チャペルの創立牧師、また改革聖書学校(Reformation Bible College)の初代校長を務めた。彼の著書は『The Holiness of God』など100冊を超える。