
「信仰のみ」とは?
2025年01月14日(木)
「神にのみ栄光あれ」とは?
2025年01月15日(木)「恵みのみ」とは?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「五つのソラとは?」というシリーズの第六章の記事です。
16世紀の宗教改革に関連するモットーの一つに、ラテン語の「post tenebras lux(暗闇の後には光あり)」というものがあります。これは、ローマ・カトリック教会の腐敗とは対照的に、改革者たちはキリストの福音の光を再発見したと見なしていたことを意味します。この教理は伝統的に、宗教改革の五つのソラとして要約されてきました。これらのソラの一つは、ラテン語の「sola gratia(恵みのみ)」です。宗教改革者にとって、「恵みのみ」の教理は、キリストによる救いを正しく、完全に聖書的に理解するために重要でした。例えば、マルティン・ルター(1483-1546)は、次のように明確に述べています。「しかし、人は自分の救いが自分の力、工夫、努力、意志、行いによってではなく、完全に他者によるもの、すなわち神のみによる、選び、意志、御業、に依存していることを知るまで、徹底的に謙虚にはなれない。……そうすればその人は恵みに近づき、救われ得るのである。」[日本語は訳者による。]実際、ルターをはじめとする宗教改革者たちにとって、「恵みのみ」の教理の腐敗は、人間の努力がこっそりと裏口から入り込むことを意味しました。このため、「恵みのみ」を正しく理解することは、今日のクリスチャンにとって極めて重要なのです。福音の純粋さは、この教理を理解するかどうかにかかっています。
「恵みのみ」が何であるかを理解するためには、まず「恵みのみ」が何で “ない” かを理解しなければなりません。
「恵みのみ」は「主に恵みのみ」ではありません。
言い換えれば、「恵みのみ」は、神が私たちの救いのためにほとんどの働きを成し遂げたが、私たちが少しだけ貢献しなければならないことが残っている、という意味ではありません。神の恵みは、人間が中立的な立場から応答できるような状態に導くものではありません。もしそうであれば、最終的には救いは人間の行動次第ということになり、人間の行いが主導権を握ることになります。
「恵みのみ」は、神が客観的には救いを成し遂げたが、主観的には成し遂げなかったという意味ではありません。
これを言い換えるなら、「恵みのみ」は、キリストがあなたの救いとは別に、一般的な救いを買い取ったという意味ではないということです。贖いは常に、特定的であり個人的なものです。これを否定することは、一見敬虔なように見えますが、人間の行いを巧妙に救いに取り込む行為に過ぎません。聖書における「救い」とは、何か物を買い取ることではなく、特定の人々を贖うことです。
「恵みのみ」は、救いの一部分だけが「恵みのみ」によるという意味ではありません。
クリスチャンの中には、人は自らの自由な選択によってキリストのもとに来て、その後、神が主権的に彼らの信仰を守られると信じる人もいます。また別の立場では、クリスチャンは信仰に主権的に引き寄せられるが、後になって救いを失う可能性もあると主張する人々もいます。いずれの場合も、私たちは無意識のうちに、人間の行いを救いに持ち込んでしまったのです。人間の選択(回心前・回心後に関わらず)が救いの決定要因であるなら、救いは基本的に人間の努力(つまり行い)の結果です。
では、「恵みのみ」とはどういう意味なのでしょうか?
神はあなたの救いに必要なことをすべて成し遂げられました。
救いは抽象的な行為などではなく、あなたのために成し遂げられた恵み深い贖いの御業です。永遠の昔から、三位一体の神はご自分のために民を救うという契約を結ばれました。父は子のために民を選ぶことを決め(ルカ22:29; エペソ1:3–14)、子はその民が救いを得るために働くことに同意し(詩篇2篇; ヨハネ3:35; 14:31; 15:9)、聖霊はその民に救いを適用します(イザヤ63:10–14; エゼキ36:25–27; 37:14; ヨハネ3:5; 14:26; 15:26; 16:7–15; 20:21–23)。このようにして、救いはあなたに定められ、あなたのために成し遂げられ、あなたに適用されたのです。
救いは神の純粋な恵み深い愛に基づいています。
「恵みのみ」とは、あなたの救いが純粋に神の恵み深い愛に基づいていることを意味します。パウロは、神に選ばれた者の救いは、人間の行いや決断に基づくものではないと説明しています。むしろ、この救いは完全に神の恵み深い憐れみによるものであり、神が望む者に与えられるものです(ローマ9:15–16, 22–23; 出エジ33:19参照)。
救いは主のものです。
「恵みのみ」とは、初めから終わりまで、救いは主のものであることを意味します(詩篇3:8; 62:1; ローマ8:29–30)。神の主権的な恵みは、ただ回心の前に現れてあなたを変えたり、ただ回心の後に現れてあなたを守ったりするものではありません。そうではなく、世界の創造の基から永遠の来るべき時代に至るまで、神はその小さな者たちをしっかりと御手の中で支え、キリストは御自身の民すべてを終わりの日によみがえらせてくださるのです(ヨハネ6:41–46)。初めから終わりまで、選びから回心、そして天国に至るまで、救いは神の恵みのみによるのです。
クリスチャンにとって、「恵みのみ」は聖書全体の中で最も甘美な教えの一つです。ルターは次のように説明しています。
もし神が私たちの内に働かれるなら、意志は変えられ、神の霊によって優しく息を吹き込まれ、再び純粋な意志と願いから、自発的に、意志を持ち行動するようになるだろう。それは強制からではなく、したがっていかなる反対によっても方向転換されることはなく、地獄の門さえもそれを打ち破ったり強制したりすることもできない。もはや善を求め、喜び、愛するようになるのだ。まさに、かつて悪を求め、喜び、愛していたように。[日本語は訳者による。]
では私たちは、何を言うべきでしょうか?このような偉大な救いに、私たちはどのように応えるべきでしょうか?唯一私たちにできる応答は、私たちの恵み深い神の御前にひざまずき、神の永遠のご計画に謙遜と畏れを抱くことです。私たちは感謝の言葉をもってこう叫ぶべきではないでしょうか。「主よ、なぜ私を招いてくださったのですか?」
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。