
女性の牧師について聖書は何を語っているか
2026年04月15日(木)イエスは完全な方であったか
「完全な人はいない」——これは現代の格言であり、もっともな真実です。私たちはみな自分自身の欠点や限界を知っており、自分のこととなると、この格言をすぐに掲げます。
しかし、聖書はこの原則に一つの例外を示しています。私たちはこの格言も耳にすることがあるでしょう:「完全な人は、ただ一人しかいない」 その人こそ、イエス・キリストです。
確かに、イエスはこの世に生きた唯一の完全な人です。では、聖書はこのことをどの箇所で、どのように教えているのでしょうか。興味深いことに、聖書の中には、イエスは「完全な者とされた」と語る箇所もあります。このイエスの「完全さ」について調べてみましょう。
神であられる御子
完全な人としてのイエスの生涯について具体的に考える前に、私たちはイエスが永遠で、神であり人格を持つ方であることを認識する必要があります。それはつまり、イエスが永遠の神の御子であられるということです(ヨハネ1:1)。イエスは永遠に存在し、神のご性質を形づくるすべてにおいて完全であられる方です。つまり神は、「その存在・知恵・力・聖性・義・慈しみ・まことにおいて、無限・永遠・不変」です(ウェストミンスター小教理問答4)。
すなわち、イエスは神の御子性があるため完全です。イエスは完全に罪から自由であられます。
イエスの完全な人性
神であられる御子という性質とは対照的に、私たちがイエスの完全な生涯について語るとき、それは受肉におけるイエスの人性という観点から語っています。つまり、イエスの人としての本性の完全さです。これは、さまざまな角度から見ることができます。
第一に、イエスはアダムの罪に含まれていませんでした。これは、例えばローマ人への手紙5章12-21節に示されていることです。アダムによって「すべての人が罪を犯し」ましたが(ローマ5:12)、イエスはその対比として示されています。一人の罪によって、アダムにあるすべての人が不義に定められましたが、一人の義の行為によって、キリストにあるすべての人が義と認められるのです(ローマ5:18-19)。
すべての人がアダムを通して罪を犯し、しかしキリストが義といのちをもたらすのであれば、イエスはアダムにあって罪を犯した「すべての人」には含まれていなかったことになります。イエスが与える義は、契約のかしらとしての特別な立場、そして完全に義なる代表者としての立場から生じるものです。これは、御使いガブリエルがマリアに告げた、「生まれる子は聖なる者、神の子」であるという言葉に一致しています(ルカ1:35)。
これらはすべて、イエスには罪へと傾かせる堕落した性質がなかったことを意味します。イエスは堕落していない、罪のない人としての本性を持っておられます。イエスは完全に義なる方です。
第二に、イエスは完全に従順な人としての生涯を生きられました。これもまた、アダムと関係する点です。アダムの不従順によって人は不義に定められましたが、新約聖書はイエスを第二の、そして最後のアダムとして示し、その代表者としての従順が第一のアダムの不従順を取り消したとしています。
ローマ人への手紙5章12-21節に加えて、マルコの福音書に記される荒野の誘惑のエピソードは、イエスを新しいアダムとして、すなわち誘惑の中でも従順を貫いた代表者として描いています。この記述に野の獣が出てくるのは、エデンの園を想起させるためだと考えられます(マルコ1:12-13)。
同様に、ルカの福音書3章21-22節でイエスがバプテスマを受けた後、ルカの福音書はイエスの系図をアダムまでさかのぼって記しています(ルカ3:23-38)。その後、イエスは荒野へ導かれるのです(ルカ4:1-13)。ここでもまた、イエスの従順と、新しいアダムとしてのイエスが結びついています。
パウロもまたこのことをコリント人への手紙第一15章で扱っています。イエスは最後のアダムであり、死者の復活もこの方を通して来るのです(一コリ15:21-22, 45)。イエスの復活は、イエスの死が不当なものであったことを立証するものでした。イエスは罪のない方であったため、犯罪者として殺されるのは不当なことでした。そのため、イエスが新しいいのちによみがえられたことは、イエスの完全な従順をあらわしています(一テモテ3:16参照)。イエスの復活は、イエスの生涯全体に渡る従順を示すのです(ヘブル2:14-18参照)。
第三に、ヘブル人への手紙において、イエスが「完全な者とされた」と語っているのは(ヘブル2:10; 5:9; 7:28)、救いの歴史という文脈の中で理解されるべきであり、イエスの本質的な性質について語っているのではないことを理解する必要があります。永遠の神の御子であられるイエスには、罪がありません。さらにイエスは地上での生涯においても、一度も罪を犯されませんでした。したがって、イエスが完全な者とされたというのは、以前の祭司たちよりもさらに大胆に神に近づく恵みを私たちに与えるために、最後の完全なる祭司としての役割を見事に成し遂げられたということを指しているのです(ヘブル5:7-10; 6:19-20; 9:11-14; 10:5-14)。
イエスが最後のいけにえを献げることができたのは、イエスが永遠の神の御子であり、朽ちることのない、いのちの力によって永遠に生きておられるからです(ヘブル7:15-28)。イエスの復活と、イエスが備えられた神に近づく恵みは、自らを献げられたイエスのいけにえが完全なものであったことを前提としており、またそれは、イエスの地上での生涯が完全であったことに基づいているのです。
まとめ
私たちは誰一人として完全ではありません。ですから、イエスが完全であられることは、まさに良い知らせです。イエスは第二の、そして最後のアダムであり、イエスの完全な従順は私たちが信仰によって受ける義認の根拠となります。永遠のいのちはこの方にあります(ヨハネ1:4; 20:31)。イエスは単なる人ではなく、永遠の神の御子です。しかし、イエスは真に人でもあられます。神であり人である方として、私たちが自分ではできないことを私たちのために成し遂げてくださったのです。
イエスは、完全な祭司として、完全に神に近づく恵みを与えてくださる唯一の仲介者です(ヘブル10:14)。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(ヘブル4:14-16)。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

