イエスは完全な方であったか

2026年04月22日(木)

イエスは完全な方であったか

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マリアは罪がなく生まれたのか


難しい質問には、複雑な答えが求められます。しかし「マリアは罪がなく生まれたのか」というのは、難しい質問ではありません。その答えはごく単純です。「いいえ」、以上です。聖書ははっきりとこう語っています。「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。当然マリアも例外ではありません。さらに、パウロは後にこのようにも論じています。「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に——」(ローマ5:12)。

聖書に基づく答えを求めるだけなら、この記事はここで終わりでしょう。しかし、ローマ・カトリック教会は聖書を最終的な権威として位置付けていないため、この問いに対して彼らが与える答えはまったく異なるものになります。

毎年12月8日には、マリアの無原罪の御宿りの祭日が祝われます。この日、ローマ・カトリック教会は、マリアが原罪から守られていたという信条を思い巡らします。この見解は、何世紀にもわたってローマ・カトリックの教えや信心の実践の一部となってきました。しかし、1854年に初めて教皇ピウス9世によって「無原罪の御宿り」は正式に公布され、教義として宣言されました。このようにして、この教義はローマ・カトリック教会において拘束力を持つ、改革不可能な信仰となりました。以下は、教皇による勅書『マリアの無原罪の御宿り(Ineffabilis Deus)』に記された、この教義の実際の文言です。

我々はこの教義を宣言し、宣告し、定義する。至聖なるおとめマリアは、全能の神の特別な恩恵と特権によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから、前もって保護されていたと主張する。この教義は神から啓示されたものであるので、これを全ての信者は固く信じなければならない。

このように宣言し、定義し、主張するという大胆で決定的な言葉が用いられているものの、聖書の観点からこのマリアに関する教義を受け入れることは困難です。聖書には、この信仰を裏付ける証拠となるものは一切ありません。どうしてこのような見解が教義という地位にまで引き上げられることができるのでしょうか。最大限譲歩しても、聖書はこの点に関して、せいぜい沈黙しているに過ぎないのです。

ローマ・カトリック神学がマリアの無原罪の御宿りをいかに聖書の教えと結びつけようとし、説明しているかに傾聴するのは、非常に興味深いものです。この教義に関して重要な出来事として、2016年12月8日にフランシス教皇によって語られた演説(講話)があります。教皇はその中で、イエスは「成長し、力強い」大人として来られたのではなく、「人間の歩みをたどられ」ることを自ら選び、「一つの点、罪を除いて、あらゆる点で私たちと等しい存在になられた」と述べています。 このため、「イエスは、唯一罪のない被造物、無原罪のマリアを選ばれ」ました。教皇は、マリアがここで「恵みに満ちた方[訳注:新改訳2017では「恵まれた方」](full of grace)」と呼ばれたことから、マリアには初めから、「罪の入り込む余地がなかった」と捉えました。そして教皇はこう続けています。「そして私たちがマリアに目を向けるとき、私たちもまたこの美しさを目の当たりにします。私たちは、この悪の影もない「恵みに満ちた」マリアを呼び求めるのです」

教皇がここで言及している聖書箇所は、ルカの福音書1章28節です。マリアが御使いガブリエルによって、「恵まれた方(favored one)」と呼ばれる場面です。4世紀後半にラテン語に翻訳されたウルガタ訳聖書では、この表現を「gratia plena(”full of grace”; 恵みに満ちた方)」と訳しました。これによって、マリアが恵みに満ちた状態を持っていたかのような、さまざまな誤解が生まれることになったのです。この訳は、マリアがそれほどまでに恵みに満ちていたのなら、原罪なしに懐妊したに違いないとして受け止められてきました。

しかし、その聖書箇所には、マリアが恵みに「満ちている(full)」ために罪が「ない状態(void)」であるとは微塵も書かれてありません。「恵まれた(favored)」という状態は、マリアが神の恵みを受けるに値しない存在でありながら、その恵みを受けた者であったことを示しています。それは私たちと同じ状態です。このことはマリアが神を自身の「救い主」と呼んでいる事実によって、さらに強められています(ルカ1:47)。これはマリア自身が、神の救いが必要だと考えていることを示しており、この点も私たちと同じです。マリアの中に、神の恵みや神が彼女とともにおられることとは別の、本質的な恵みは存在しません。

したがって、マリアの無原罪の御宿りを支持する議論は、この聖書箇所の誤った翻訳に基づいていると考えられます。この翻訳による誤解が、人間論や救済論に影響を及ぼし、聖書的な福音の中心的な教えを歪めるような、疑わしい教義を導き出しているのです。明白な聖書の教えは、こうです。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ[ない]」(ローマ3:23)。そこには、誰かに与えられている特別な例外などは述べられていません。マリアは、罪からの「保持(preservation)」によって救われたのではありません。彼女もまた、他の人間と同じ罪人であり、アダムの罪を受け継いだ堕落した人類の一人として、御子によって贖われたのです。イエスは、罪なく生まれた新しいアダムであり、アダムの罪深い子孫を救うために来られました。その中に、マリアも含まれています。

ローマ・カトリック教会がマリアの無原罪の御宿りに完全なる確信を持っているという事実は、聖書が教えることを信仰の土台としたいと願う人にとって、未だ大きな疑問符を投げかけるものです。ローマ・カトリック信仰は、その洗練されたマリア論に顕著に表れているように、聖書のみによる信仰に基づくものではなく、信心や伝統が、聖書の上に——あるいは聖書に反してさえも——最終的な決定権を持ち得る方向へと進んでいます。

1 日本語訳は訳者による。以下の引用も同様。英語原文は以下:https://www.vatican.va/content/francesco/en/angelus/2016/documents/papa-francesco_angelus_20161208.html?utm_source=chatgpt.com


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

レオナルド・デ・キリコ

レオナルド・デ・キリコ

レオナルド・デ・キリコ博士は、Church Breccia di Roma の牧師であり、イタリアのパドヴァにあるInstituto di Formazione Evangelica e Documentazione で歴史神学の講師を務めている。彼はVatican Filesというブログで福音主義の視点からバチカンおよびローマ・カトリックに関する問題を記し、発信している。彼はReformanda Initiativeのディレクター、ならびに同団体のポッドキャストの共同パーソナリティも務める。著書に『A Christian’s Pocket Guide to the Papacy』『Tell Your Catholic Friend: How To Have Gospel Conversations with Love』がある。