栄光に満ち満ちた、私たちの救い主
2023年11月28日(木)牧会は三一の神に倣う働き
2023年11月29日(木)ご自身に敵対するものを救うイエス・キリスト
編集者注:これはテーブルトーク誌の「イエスの時代のユダヤ文化」というシリーズの第八章の記事です。
回心する前のパウロは、イスラム教の過激派のようでした。キリスト教を憎み、それを根絶やしにするためにあらゆる手を尽くしたのです。神は、神の民を迫害した他の人たちを滅ぼしたのと同じように、パウロを滅ぼすこともできたでしょう。神にはそうする正当性があります。多くの人が(実にパウロ自身も)パウロを、クリスチャンになる可能性が最も低い人物と見做していました。パウロは、自分を救いようのない者たちの極限に位置する人だと言っています。もしパウロが真理を知り、それにもかかわらずキリストに対して反逆の限りを尽くすようだったら、パウロは救われなかったかもしません。 「しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」(一テモテ1:13)。パウロはクリスチャンを激しく迫害する中で、今日多くの人がそう考えているように、自分も良いことをしていると信じていました。
パウロの来歴を考えると、パウロがキリストのことを人に伝え始めた時、ダマスコの人々が唖然としたことをルカが記録しているのは不思議なことではないでしょう。
これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。』(使徒9:21)
エルサレムの人の反応も同じでした。イエスの弟子たちは「みな、パウロが弟子であるとは信じず、彼を恐れていた」のです(26節)。
パウロはなぜ手紙の中で自らの救いについて語るのでしょうか。それはテモテに、自分に対する「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれた」ことを覚えて欲しいからです。イエスが誰であり、何を成し遂げられたのかを思い巡らす時、パウロは感動と賛美で満ち溢れるのです。迫害する者であったパウロが変えられ、赦され、信仰と愛に満ち溢れる者にされたのです。もしキリストにこのようなことができるのなら、テモテはエペソで直面している迫害を恐れたり、それに対して不安になったりする必要はないのです。イエス・キリストは、テモテと教会のすべての必要を十二分に満たしてくださるお方です。
テモテと同じく、私たちが確信に満ちた信仰を持つこと、これが主の願いであることは明白です。「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(15節)。死んだ者をよみがえらせ、悪者を義とし、有罪の人を無罪放免にするーこのために主は来られたのであり、今もその働きをなされているのです。人を救い、つくりかえ、聖とするために、主は王としてその主権を発揮されるのです。パウロは言います。「私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした」(16節)。パウロが忍耐と憐れみを受けたのは、私たちがイエスに出会うためです。パウロが悪を働いていた間、イエスはご自身の働き、すなわち十字架、墓、復活、昇天を遂行しておられたのです。パウロが悪のうちに生きていた間、イエスは栄光の御座に座り、パウロの救いのために働き、時を待っておられたのです。パウロをつくりかえた後も、イエスはその僕パウロを忍耐強く愛し、聖めておられました。それは、私たちの主であり救い主であるイエスが私たちを忍耐強く愛し、聖くしてくださる方であると、今日も、永遠までも、私たちが喜びを持って知ることが出来るためなのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。