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聖書を知ること

編集者注:これはテーブルトーク誌の「新約聖書書簡」というシリーズの第二章の記事です。

聖書は信頼できない、なぜなら自分の言いたいことをどうにでも聖書に言わせることができるから、という訴えをよく耳にします。もし聖書が客観的な神のことばではなく、ただ人の思い通りに扱えるようなもので、自分の教訓を教えるために形を変えたり、ねじ曲げたり、歪めたりすることができるようなものなら、この非難は正しいものと言えるでしょう。神聖なる聖書に書かれていないものを聖書のことばだとすることが、聖霊なる神に対する冒涜でないなら、この訴えは真実です。しかし、聖書に対して謙遜にアプローチし、聖書が語ることばに耳を傾けようとするなら、私たちの望むように聖書に言わせるということは、真実ではないことがわかるはずです。

時に、組織神学は敬遠されがちですが、それは組織神学が聖書に哲学的な体系(組織)をむりやり押し付けていると見なされるからです。組織神学は、まるでプロクルステスの寝台のように、聖書をその形に収めようと手足を切り落としてねじ込むような、先入観に基づく体系と捉えられがちです。しかし、組織神学に対する適切なアプローチは、聖書そのものに体系的な真理があることを認識することです。聖書に体系を押し付けるのではなく、聖書が教えている体系を理解することによって神学を構築することが、神学者の仕事です。

宗教改革の時代、聖書の乱暴な解釈、思弁的な解釈、空想的な解釈を止めるために、改革者たちはあらゆる聖書的解釈を統制すべき基本原理を提言しました。この提言を、「信仰の類比」と呼びます。これは、聖書自体が聖書を解釈する、という意味です。言い換えれば、私たちは聖書に沿って聖書を解釈するべきだということです。すなわち、特定の聖書箇所の意味を解釈する場合の最高裁定者は、聖書全体の教えなのです。

信仰の類比の原則の背後には、聖書が神の霊感による神のことばであるという確信が前提にあります。もし、聖書が神のことばなら、それは一貫しているべきであり、理路整然としたものであるはずです。しかし、すね者によると、一貫性などというものは小鬼のような小心者の特徴だと言います。もしそれが本当なら、最も小さな心こそ、神の心だと言わなければならないでしょう。しかし、一貫していることが小さく弱いものであるべき必然性は全くありません。聖書が神のことばであるなら、聖書全体が一貫していて、理解できる、一致していることを期待するのは当然のことです。神が全知であられる以上、神には決して矛盾がないことを私たちは想定しています。ですから、聖霊が他の箇所ですでに明らかにしておられることに対して、不必要に矛盾するような解釈を別の箇所に充てることは、聖霊への冒涜に他なりません。したがって、改革派の解釈学や解釈の原則は、信仰の類比なのです。

聖書の客観的な解釈のための第二の原則は、sensus literalis、すなわち字義的解釈です。今まで多くの人が、信じられないかのように私にこう尋ねてきました。「あなたはまさか、聖書を文字通りに解釈するんですか」 この質問に対して、私は決して「はい」と答えることも「いいえ」と答えることもありません。私はいつも、こう答えるのです。「もちろんですよ、それ以外に聖書を解釈する方法がありますか?」 Sensus literalis が意味するのは、聖書のどの箇所も「完全に字義通り」解釈されるべきだということではなく、聖書が書かれているとおりの意味で解釈されなければならないということです。たとえ話はたとえ話として、象徴は象徴として、詩は詩として、教訓文学は教訓文学として、歴史物語は歴史物語として、特定の状況に応じる手紙は特定の状況に応じる手紙として、解釈されるべきなのです。字義的解釈という原則は、文字で書かれたあらゆる資料を解釈する場合にも同じように適用される原則です。

字義的解釈の原則は、もう一つの規則を私たちに示しています。それはすなわち、ある意味で、聖書は他のどの書物とも同じように読まれるべきものであるということです。聖書は神の霊感という権威があるという点で、他の書物とは確かに異なります。しかし、神の霊感によって書かれたからといって、その文章の動詞が名詞になったり、名詞が動詞になったりするわけではありません。聖書が霊感によるものだからと言って、何か特別で秘密や、難解で秘伝的な意味が聖書に注がれているわけではありません。また、私たちが「聖霊のギリシャ語」と呼ぶような謎めいた能力も存在しません。聖書は、普通の言語の規則に則って、解釈されるべきなのです。

この点と深く関わっているのは、「明示が暗示によって解釈されるよりも、暗示が明示によって解釈されなければならない」という原則です。この解釈の原則は、常に破られています。例えば、ヨハネの福音書3章16節の「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」という箇所があります。多くの人は、信じる者は誰でも救われると聖書が教えているので、聖霊による再生の働きかけがなくても、誰でも信じることができると結論づけています。すなわち、信じることへの呼びかけはすべての人に与えられているので、すべての人がその呼びかけを実現させる力を自然に持ち合わせていると解釈しています。しかし、同じ福音書の3章あとで、イエスは「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と説明しておられます(6:65)。これは、私たちがキリストのもとに来るための道徳的な能力は、神の主権的な恵みとは別で、私たちに欠けている能力であることが、明確に、具体的に教えられているのです。したがって、これを否定する解釈はすべて明示的な教えの下に組みこまれるべきであり、私たちが文面から得た解釈に明示的な教えを無理やりねじ込むべきではありません。

最後に、不明瞭な箇所を明瞭な箇所によって解釈することは、常に重要です。私たちは、神聖な聖書が基本的に明瞭であることを認めていますが、同時に、すべての箇所が同等に明瞭であるとは言えません。多くの人が、明瞭な箇所より、不明瞭な箇所に合わせることを強要し、聖書全体のメッセージを歪めてしまったために、数々の異端が生まれました。ある箇所の一部が不明瞭な場合も、聖書の他の箇所では明瞭にその意味が示されているかもしれません。聖書の中に、さまざまに解釈できる二つの箇所があるとき、私たちは常に、聖書の一致と完全性という基本原則に反しないように聖書を解釈することを求めます。

これらは、私の著書『Knowing Scripture』の中で示した、聖書解釈の基本的かつ実践的原則のほんの一部です。ここで本のタイトルを紹介したのは、責任ある聖書解釈を実践するために、この本が大変役に立ったという声が多くあったからです。聖書解釈の原則を学ぶことは、私たちの個々の学びの指針として大いに役立つことでしょう。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

R・C・スプロール
R・C・スプロール
R・C・スプロール博士は、リゴニア・ミニストリーズの設立者であり、フロリダ州サンフォードにあるセント・アンドリューズ・チャペルの創立牧師、また改革聖書学校(Reformation Bible College)の初代校長を務めた。彼の著書は『The Holiness of God』など100冊を超える。