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イエスはいかにして「良い牧者」か

編集者注:これはテーブルトーク誌のイエスによる「わたしは〜です」というシリーズの第二章の記事です。

この素晴らしい問いに対する答えは、ごくシンプルです。イエスが「わたしは良い牧者です」と言われたから、イエスは良い牧者なのです。イエスはヨハネの福音書で「わたしは良い牧者です」と言われました(ヨハネ10:11)。ここで話を終えて、イエスご自身の宣言に満足することもまた良いでしょう。ご自身を責める者に対して、「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか」と言うことのできる方なのですから(ヨハネ8:46)。イエスは真理を語られただけでなく、「わたしが……真理で[す]」と言われました(ヨハネ14:6)。しかし、イエスは決して証拠の伴わない自己主張をされることはありませんでした。誰でも、自分についての主張をすることはできます。たとえそれが大袈裟な主張であっても、言うだけならば可能でしょう。しかしそのような主張は、それが真実か、それとも単なる自己陶酔かを示すために、検証されなければなりません。

イエスが「わたしは良い牧者です」と言われたとき、その後に続くことばがイエスの意図を明確にするとともに、主張の実質を示しています。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)。

牧者と羊という牧歌的なイメージは、当時のイエスの聴衆には非常に馴染みのあるものでした。何よりも彼らは、羊飼いや羊があちこちにいる土地で暮らしていました。しかしそれ以上に、人々は神ご自身が深い愛をもってご自分の羊——神を信じる民——を養う羊飼いに例えられることを聖書から知っていたのです。おそらく、詩篇23篇は最も活きいきと、記憶に刻まれるかたちで、この牧者のように羊を養ってくださる主なる神の姿を描いていると言えます。

は私の羊飼い。

私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ

いこいのみぎわに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ

御名のゆえに 私を義の道に導かれます。

たとえ 死の陰の谷を歩むとしても

私はわざわいを恐れません。

あなたが ともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖

それが私の慰めです。

私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え

頭に香油を注いでくださいます。

私の杯は あふれています。

まことに 私のいのちの日の限り

いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。

私はいつまでも の家に住まいます。(詩篇23:1-6)

私はこの詩篇を何百回も読み、40年間の牧会生活の中で、700回以上の葬儀でこれを朗読してきました。このことばは、天の牧者がご自分の尊い羊に示される配慮、優しさ、備え、守り、そして純粋な愛を、実に美しく表現しています。この詩篇はまさに、なぜ主が「良い牧者」であられるかを強く語っています。

イエスが「わたしは良い牧者です」と言われたとき、それは驚くべき主張でした。イエスは、自らが受肉された主であり、ご自分の羊を愛し、気遣い、養い、守る方であることを宣言されました。しかしイエスのことばは、いかにイエスが真に「良い牧者」であられるかを、驚くべきかたちで実証しているのです。「良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます」

イエスが「良い牧者」であるという主張は、ご自分のいのちを捨てて、ご自分の羊たちの永遠の益を保証されたことで、最も素晴らしく、かつ驚くべきかたちで示されました。

かつて、マルティン・ルターはこう書きました。「Crux probat omnia」——「十字架はすべてを試す」という意味です。ルターの意図したところは、罪を背負い、罪を贖うカルバリの十字架のイエスの死こそが、罪人に対する神の愛の最も完全な啓示であるということです。私たちの最初の頭(かしら)であるアダムの罪と堕落によって、私たちは神から引き離され、神の公正かつ正しいさばきのもとに置かれました。私たちには、神との関係を正すためにできることは何もありませんでした。しかし、私たちにはできなかったことを、神はご自分のひとり子を与えることで成し遂げられました。それは、私たちの代わりに生き、私たちの罪に対するさばきを代わりに背負って死に、三日目に勝利のうちによみがえり、それによって私たちを神と和解させることでした。

では、イエスはいかにして「良い牧者」でしょうか? 愛に満ちた、この天から遣わされた牧者は、ご自分のいのちをささげられました。それは、そのことによって、さばきを受けるべき失われた羊たちが、神の正しい怒りから逃れ、再び神の友となり、交わりを回復し、やがて神の臨在のさらに近い場所でともに生きるためでした。

ここで、私はこう尋ねずにはいられません。あなたは悔い改めと信仰をもって、この良い牧者のもとに来ましたか? ご自分の御子を惜しまずささげ、あなたのために、あなたの身代わりとして十字架の死に引き渡してくださった父なる神への感謝をもって、この良い牧者のもとに来たでしょうか? イエスはこう言われました。

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。私と父とは一つです。(ヨハネ10:27-30)

あなたは福音書に響くイエスの声を聞いたことがありますか? あなたはイエスに従いますか——ただ口で告白するだけでなく、あなたの生涯においてイエスに従いますか? もしそうなら、喜んでください。あなたはイエスの御血によって贖われ、イエスから永遠のいのちを与えられた羊の一人なのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

イアン・ハミルトン
イアン・ハミルトン
イアン・ハミルトン博士は、英国ニューカッスルにあるWestminster Presbyterian Theological Seminaryの学長、サウスカロライナ州グリーンヴィルにあるGreenville Presbyterian Theological Seminaryの非常勤教授、そしてBanner of Truth Trustの役員を務める。著書は多く、『Words from the Cross』『Our Heavenly Shepherd』さらにThe Lectio Continua Expository Commentaryのエペソ人への手紙の注解書を執筆している。