中心がずれていませんか?
2023年01月10日(木)真理(全体)の一致
2023年01月13日(木)事実に基づく福音書
編集者注:これはテーブルトーク誌の「福音書」というシリーズの第十章の記事です。
21世紀の住人にとって、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書は十分ではないようです。『ダ・ヴィンチ・コード』の著者ダン・ブラウンのような小説家や、エレイン・ペイゲルスのようなフェミニストの神学者、そしてメディアや世俗文化における彼らの信奉者たちは、より受け入れやすいイエスを求めて、初期の異端者の外典福音書に目を向けています。これらの書物は初期のキリスト教の正当かつ代替的な教えを含んでおり、今日のフェミニズムや道徳的寛容を支持する根拠ともなるものだとされています。しかし、新約聖書の福音書を、その何世紀も後に書かれた書物と比較したところで、後者が歴史上の著作に過ぎないことが明らかになるだけなのです。
近年、『ユダの福音書』と題する古代写本が発見され、世間を騒がせたのを覚えているでしょうか。メディアは、この文書がユダを善人として描いていること、そしてユダがイエスを引き渡したのはイエスにそう命じられたからだということを報じました。報道は、教会が何世紀も間違ったことを教えていたと暗に伝えたのです。ユダは悪意のある裏切り者などではなく、イエスから特別な知識を授かった主要な弟子だったといいます。この報道は、私たちのイエスに関する知識を再検討する必要性を訴えました。翻訳本はベストセラーとなり、出版を支援したナショナル・ジオグラフィックは、このテーマでドキュメンタリー番組を制作しました。
しかし、この話の続きを聞いたことはあるでしょうか? 『ユダの福音書』を大々的に報道したメディアは、学者たちがこれらの主張すべてを否定していることに、十分に注意を払っていませんでした。最終的には、ナショナル・ジオグラフィックは「学術的過誤」の烙印を押されてしまいます。しかし、The Chronicle of Higher Education [訳注:大学や学生や専門家向けに発信されている高等教育情報誌/ウェブサイト] は、順当な学問が、いかにメディアの煽りや中身のない世俗文化、商業的な利益に乗っ取られたかを指摘しました。
メディアは、この写本に含まれるささいな詳細を読み飛ばしていました。それは、ユダが命じられるままにイエスを引き渡したのは、世の罪が贖われるためではなく、ユダがサクラスという悪霊にイエスをいけにえとして捧げることに固執していたという点です。これが代替的なキリスト教の伝統であるなど、どうしたら言えるでしょうか。
しかし、最大の問題は、写本が誠実に翻訳されなかったことです。ナショナル・ジオグラフィックが「霊」と訳した表現は(ユダが「13番目の霊」とされている)、本来「悪霊」と訳されるべきです(ユダは「13番目の悪霊」)。ベストセラーの本では、ユダが「聖なる世代のために聖別された(set apart for)」存在であると書かれていますが、これは「聖なる世代から引き離された(set apart from)」と訳すべきです。最も言語道断と言える誤訳は、否定語を省いて、ユダは「聖なる世代のもとに引き挙げられるだろう(would ascend)」とされている表現です。実際、写本には、ユダは「聖なる世代のもとに引き挙げられることはない(would not ascend)」と書かれています。
ナショナル・ジオグラフィックの翻訳者たちは、この文章に実際の内容とは真逆の解釈を与えたのです。どうやら、この文書を書いたグノーシス主義の異端者たちでさえ、ユダのことを良く思っていなかったようです。
しかし、今日の宗教的風潮の中では、グノーシス主義のものは何でも特別魅力的に捉えられています。グノーシス主義者は物質世界は幻想であり、霊のみが重要であると信じます。従って、肉体とそれに伴う行動はまったく意味を持たないと考えるのです。これを今日の神学者に適用させると、あなたが男であるか女であるかの違いはなく、そのような身体の細部は霊的な問題とは無関係であるということになります。このような思想から、乱交や薬物乱用で有名なハリウッドの若いスターは、自分たちがいかに「霊的(スピリチュアル)」であるかを語るのです。
かつて、家父長制を掲げる牧師が、女性を虐げ自分たちの権力を押し付けるためにグノーシス主義を異端とし、正統派キリスト教を構築したと言われています。これをキリスト教の正当な血統と呼ぶにはあまりに不合理でしょう。グノーシス主義は、むしろキリスト教とは正反対の思想です。
実際の福音書は、その違いを強調しています。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書は、現実的歴史書です。ホメロスや ウェルギリウスによる神話のような詩文ではなく、歴史的文書のような散文で書かれています。C・S・ルイスは、福音書がフィクションだとしたら、それ自体が奇跡であると述べています。なぜなら、このような現実的散文小説は、16世紀に渡って発明されなかったからです。それに対して、グノーシス主義の福音書 —— マグダラのマリアの福音書、ピリポの福音書、ユダの福音書など —— は、ほとんどがプラトンをモデルにした哲学的な談話です。さらに、聖書の福音書は、実際に存在する物理的な世界、つまり飼い葉おけ、結婚式、野のゆりなどを題材にしています。グノーシス主義者は、これらのものを否定しています。
正典の福音書は、イエスについて共通の視点を示しています。イエスの人格は、他のどんな想像上の人物とも違って、独特であり一貫性があります。これは、特に異なったスタイルを持つヨハネの福音書でさえ同じです。グノーシス主義者の福音書から浮かび上がってくるイエス像は、非常に違っています。談話は専門用語が飛び交い、哲学的な神秘主義であることに加え、『幼児物語』では、超能力でいじめっこを打ち負かす短気な少年イエスの姿が描かれているのです。
福音書における復活の記述は、特にその特徴が顕著です。一見、物語は食い違っているように見えます。しかし、よくよく見てください。これらの記述は、特定の個人の視点から語られています。すなわち、私たちは、マグダラのマリア、ペテロ、エマオに向かった二人の弟子たちの視点から風景を見ることができるのです。つまり、この物語は目撃者証言そのものです。
イエスは、復活のからだで魚を食べ、そのからだには傷跡が残り、それに触れることもできます。このイエスは、受肉された神の子であり、私たちを罪から救うために、虐げられて死なれ、よみがえられました。それが、歴史的事実です。偽りの福音書、そしてそれらを支持する小説や学問は、完全なるフィクションです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。