コリント人への手紙第一について知っておくべき三つのこと
2024年09月09日(木)
コリント人への手紙第一について知っておくべき三つのこと
2024年09月09日(木)

コリント人への手紙第二について知っておくべき三つのこと


コリント人への手紙第一と同様、コリント人への手紙第二もまた、不品行や偽教師たち、分派、神学的な混乱など、数えきれないほどの問題を取り上げています。この手紙には、使徒パウロがコリントの教会に抱く気遣いと配慮が明白に現れています。この手紙全体のメッセージを理解し適用するのに役立つ、三つの重要な特徴をについて考えてみましょう。

1. コリント人への手紙第二は、コリントの教会に対するパウロの集中的なケアの集大成を描いている

コリントの教会は、パウロの第二回伝道旅行のあいだに創設されました(およそ紀元後52年、使徒18:1-11参照)。ルカによると、パウロは18ヶ月以上コリントに留まりました。しかし、パウロがアンティオキアに向かうためコリントを去った直後、この新しい群れのあいだで大きな問題が起こったようです。パウロがその問題について知らされたのは、第三回伝道旅行でエペソに滞在していたときでした(使徒19章参照)。おそらくコリント人への手紙第二は、パウロがおよそ二年のあいだにコリントの教会に宛てた手紙のうち、四通目の手紙です。

  • 一通目:「前の」手紙(失われている; 一コリ5:9参照)
  • 二通目:コリント人への手紙第一
  • 三通目:「悲しみをもたらした」訪問の後の「厳しい」手紙(失われている; 二コリ2:3-4; 7:8-12参照)
  • 四通目:コリント人への手紙第二

パウロは「厳しい」手紙をテトスに託し、後にテトスはパウロに喜びの報告を持ち帰ります。その報告とは、教会が悔い改め、使徒パウロと使徒たちの教えとに忠誠を示しているというものでした。ですから、コリント人への手紙第二は、使徒とコリントの信者たちとの複雑な関係性の(完全ではないものの)「喜ばしい」集大成となっています。コリントの教会が良い方向に動いているというテトスの報告を受けたパウロの喜びから、使徒が教会生活において何を大切にしていたかが見て取れます。その中には、平和、純潔、教会の一致(教会戒規を含む)、さらにはクリスチャンの倫理的行動、謙遜、寛大な金銭管理などが含まれます。コリントの教会がこのような特質を持ち体現していたことを、使徒がこれほどまでに切望していたのなら、私たちもまた、自分たちの教会やクリスチャン生活がこのような特質を持つよう努めるべきではないでしょうか。

2. コリント人への手紙第二はパウロの使徒としての宣教を強く弁明している

パウロは、手紙の大部分を費やして、自分が偽りの「大使徒」のようではなく(二コリ11:5)、復活し昇天した主イエス・キリストの御名によって語ることを任命され、委ねられた使徒職が本物であることを示しています(二コリ5:18; 13:3参照)。パウロは、弱さと苦難(二コリ11:29-30; 二コリ12:1-10; 二コリ13:4)、新しい契約(二コリ3章)、クリスチャンの奉仕(二コリ5-6章)といったテーマを取り上げて、詳しく説明することで、自分の使徒としての宣教は主イエスの宣教と人格とに一致したものであること、世が欠乏と見ようとも神は誠実と見る(これについては後ほど展開)ことを、明らかにしています。パウロが自分の使徒職を断固として弁明するのは、福音を断固として弁明するためです。パウロの福音が真実でないなら、コリントの人々はいまだに罪の中にあり、希望はありません。したがって、パウロの弁明は、彼自身のイメージを良くするためなどではなく、手紙を受け取る人々への愛に基づくものです。コリント人への手紙第二が、このように使徒としての資格を訴えるパウロの弁明によって、非常に個人的な、自伝的な手紙になっていることは注目に値する点です。新約聖書の中では、この書簡ほどに、パウロの人柄や手紙を宛てた教会について知ることができる書物は他にないでしょう。パウロは、多くの人がそうと決めつけているように、ストイックな頑固者ではありません。パウロは繊細でありながら懐が深く、心配しながら確信に満ち、穏やかでありながら堅固な人物です。パウロは教会を愛し、福音を愛しています。偽教師たちが教会に入ってきて、使徒としての働きに取って変わることを許せないのです。パウロはこの新しいクリスチャンたちを愛するがあまり、狼が入ってきて彼らを貪り食うのを許すことができません。

3. コリント人への手紙第二はキリスト教宣教の働きの手本と言える

歴史を通して、教会は世俗的な成功の条件を教会のリーダーシップの基準として取り入れることに囚われてきました。現代、私たちはしばしば、成功を収めた企業のトップやカリスマ的なテレビのタレントなどがクリスチャンリーダーのあるべき姿だと思い込んでいます。コリントの信者たちは、クリスチャンリーダーたる者は雄弁に語るギリシアの修辞家のようでなければならないと思っていました。コリントの教会に忍び込んできた偽使徒たちは、パウロの苦難や弱さ、雄弁とは言い難い語り口調を指摘し、彼の使徒としての立場に苦言を呈していました。昔も今も、権力とカリスマ性があれば、その人は事実上祝福された福音の宣教者だと認識されがちです。このような間違った非難に対し、パウロは確かに自分の資格を述べますが、それは私たちが期待するようなものとは違っています。パウロは自分自身(と他の使徒たち)をこのように推薦しているのです。

苦難にも苦悩にも困難にも、むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。(二コリ6:3-10)

このパウロの言葉は、私たちが暗に宣教の成功の典型としているものに、疑問を投げかけます。私たちは肉にしたがって人を知ろうとしていないでしょうか(二コリ5:16)。コリント人への手紙第二は、本当のキリスト教宣教の働きは「神から来る純真さと誠実さ」(二コリ1:12)によるものでなければならないことを教えています。それは、教会の役員は自分が成したことだと考えず(二コリ3:5)、自分をアピールすることより自分に死ぬことを意味します(二コリ4:11-12)。パウロは、つまずきの原因にならないよう、コリントの人々から報酬を受け取りませんでした(二コリ11:7-9)。推薦状を持ち歩かず(二コリ3:1-3)、ずる賢い歩みをせず(二コリ4:2)、耳が喜ぶことばを語りませんでした(二コリ2:17)。なぜなら、宣教の働きやメッセージはパウロのものではなく、神のものだからです。これは、新しい契約にあずかるすべてのクリスチャンのしもべにも当てはまります。教会で行われる宣教の働きは、「弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられ」る、教会のかしらであるお方を模範とすべきです(二コリ13:4)。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

アーロン・L・ガリオット
アーロン・L・ガリオット
アーロン・L・ガリオット牧師(@AaronGarriott)は、テーブルトーク誌の編集長、フロリダ州サンフォードのReformation Bible Collegeの非常勤教授、アメリカ長老教会の教職長老である。