現代におけるキリスト教救済論の課題

2026年06月22日(木)

16世紀における救済論の改革

2026年07月16日(木)

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16世紀における救済論の改革

2026年07月16日(木)

ローマ・カトリック教会における祭司中心の救済論の発展


ペラギウス論争は、5世紀から6世紀にかけて行われた複数の公会議によって、アウグスティヌスの立場を支持する形で正式に決着しました。アダムの罪がそのすべての子孫に影響を及ぼしたこと、そして救いは神の恵みのみによるものであることが明確に確認されました。ペラギウス主義および半ペラギウス主義は、ともに退けられたのです。しかし残念なことに、教会の中には、後に教会を半ペラギウス主義的な方向へと押し戻していくことになる思想の潮流が存在していました。

例えば、新プラトン主義は、人間の救いを、さまざまな禁欲的実践によって魂が神のもとへと上昇していくこととして捉えました。このような思想はキリスト教の修道制の中に深く浸透し、その共同体は教理形成において大きな神学的影響力を持つ存在でした。これらの考えは、アウグスティヌスや偽ディオニュシオスなど、極めて影響力の大きい神学者たちの著作にも見られます。

宗教改革の時代になる頃には、ペラギウス主義との論争の中で確立された多くの成果が失われていました。神の恵みよりも個々の功績を重視する、教会と祭司を中心とする救済論体系が支配的になっていったのです。

ローマ・カトリック教会の救済論を理解することは重要です。改革派の救済論は、それがどのような神学体系の中から生まれ、何に対する応答であったのかを理解しなければ、本当の意味で理解することはできないからです。

ローマ・カトリック教会の救済論を捉えるためには、アダムにまでさかのぼる必要があります。ローマ・カトリック神学によると、アダムは善として創造され、自らの自然的な目的を達成することができる存在でした。しかしアダムは、その本性だけでは、彼の究極的な終末論的目的である「至福直観(beatific vision)」に至ることはできませんでした。その目的に達するためには、アダムは自然的存在の秩序から超自然的存在の秩序へ引き上げられなければなりませんでした。アダムは、理性によって罪深い欲望を自制する能力を与えられる必要もありました。これは、神がアダムに、人の本性を超える聖化の恵みを与えることによって達成されました。したがって、これは「さらに加えられた恵み(donum superadditum)」の賜物と呼ばれます。この賜物は、アダムの人の本性を引き上げ、神と一つにさせました。この賜物によって、アダムは究極的な終末論的目的を達成できる存在となったのです。

アダムが罪を犯したとき、アダムは超自然的な存在の秩序から堕落しました。その堕落は「さらに加えられた恵み」をも失わせましたが、彼の本性を滅ぼすことはありませんでした。中世の時代においては、アダムの人の本性がどの程度損なわれたのかについて、特に彼の理性と意志の能力について、さまざまな見解がありました。ある者は、アダムの人の本性はまったく損なわれておらず、彼は恵みの賜物を受ける前の創造されたときの状態に戻ったに過ぎないと主張しました。一方で、アダムの人の本性は傷ついたと論じる者もいました。いずれにせよ、アダムの子孫はこの堕落した状態に生まれてくることになったのです。

神学では、何を問題と見なすかによって、その解決の性質が決定づけられます。したがって、救済論は、創造論、罪論、そして堕落の結果についての理解に大きく依存しています。中世のローマ・カトリック教会が、聖化の恵みの賜物が失われたことこそが人間の問題だと理解していたことを踏まえると、彼らにとっての救いは、その賜物を取り戻すことだと考えるのは必然です。そうすると、ローマ・カトリック体系において、救いとは、堕落した人間が超自然的な存在の秩序に再び引き上げられることが含まれます。では、これはどのように実現されるのでしょうか。それは、ローマ・カトリック教会の秘跡(サクラメント)を通してです。すなわち、ローマ・カトリック教会の教会論および秘跡論が、ローマ・カトリック教会の救済論そのものなのです。そのため、私はこれを「教会と祭司を中心とする救済論体系(ecclesio-sacerdotal system of salvation)」と呼んできました(「ecclesio」は教会、「sacerdotal」は司祭が執り行う秘跡を指します)。

ローマ・カトリック体系において、洗礼とは、アダムの子どもを、アダムが堕落によって失った超自然的な存在の秩序へと引き上げる秘跡です。洗礼によってその人は神と一つにされ、すべての罪からきよめられます。洗礼の手段によって、聖化の恵みの賜物はその人の魂に植え付けられ、受洗者は義とされます。この聖化の恵みは、義化(ローマ・カトリック神学における justification)の恵みとも呼ばれます。だからこそ、ローマ・カトリック教会の救済体系において、洗礼は義化の道具的手段であると理解されているのです。

洗礼の後、新しく信者となった人には、堅信の秘跡(sacrament of confirmation)が与えられます。これによって、その人に与えられている聖化の恵みが増し加えられ、強められます。また信者は、聖体の秘跡(sacrament of the Eucharist)にあずかることによっても、聖化の恵みを増し加え、強めることができます。信者がこの高められた聖化あるいは義の状態にとどまり続ける限り、その人は善い行いをすることが可能になり、その行いによって、最終的な救いのための功績を積むことができるのです。そして、その人がこの恵みの状態で死ぬなら、最悪の場合でも天国に入る前に煉獄で一定の期間を過ごすことになるだけとなります。

しかし、もし信者が大罪(mortal sin; 重大な罪とみなされる罪)を犯した場合、その人は恵みの状態から堕ちてしまいます。もしその人が恵みの状態の外で死ぬなら、その人は煉獄に行くことはなく、地獄に行くことになります。その人は、再び引き上げられた恵みの状態に入らなければ、一切の救いの望みもありません。では、その人はもう一度洗礼を受ける必要があるのでしょうか。そうではありません。洗礼を受けるのは一度だけです。では、罪人に希望は残されていないのでしょうか。いいえ、ローマ・カトリック教会には、このための別の秘跡が存在します。恵みの状態から堕落した罪人は、教会に行き、ゆるしの秘跡(sacrament of penance)を受けなければなりません。この秘跡によって、罪人は再び義の状態に引き上げられ、終末論的救いを功績によって得るために必要な行いを実践することができるようになります。

宗教改革の時代までには、この教会と祭司を中心とする救済論体系が西方教会を支配していました。クリスチャンは霊的に不確かな状態で生きる他なく、自分が恵みの状態にあるのかどうか、いかなる確信をも持つことができませんでした。そして、人は恵みの状態で死んだ場合のみ天国に行くことができると信じていたため、人々の霊的生活における負担は非常に大きなものでした。次回の記事では、欧州の人々に再び真の良い知らせをもたらすことになった、宗教改革者たちの偉大な発見について学びたいと思います。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

キース・A・マシソン

キース・A・マシソン

キース・A・マシソン博士は、フロリダ州サンフォードにあるReformation Bible Collegeで組織神学の教授を務める。著書に『The Lord’s Supper』『From Age to Age』などがある。