
クリスチャン生活における希望の役割
2026年09月10日(木)クリスチャンの成熟とは何か?
我が家の庭には小さなリンゴの木があります。毎年少しずつ大きく育ち、実も少しずつ豊かに実るようになっています。年月を重ねる中で、この木は成熟してきました。またその成熟による実を味わうことは、私たちにとっても恵みとなっています。
多くの意味で、これは私たちが招かれているクリスチャンとしての生き方そのものです。つまり、私たちはますます豊かに実を結ぶよう招かれているのです。このように書かれている通りです。「ですから私たちは、……成熟を目指して進もうではありませんか」(ヘブル6:1)。
成熟の手本
クリスチャンの成熟は、主イエスにおいて私たちに示されています。私たちは、キリストに似た者へと変えられていくことによって、成熟し、実を結ぶようになるのです。
主イエスが生きられた人としての生涯の現実は、過小評価されてしまう傾向があります。しかし、キリストの生涯には、確かな成熟の過程がありました。イエスは、完全な乳児であり、完全な子どもであり、完全な大人でした。これらの成長の段階を、イエスは罪を犯すことなく成熟していかれたのです。
ルカの福音書2章40節に、このように書いてあります。「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。」 カルヴァンはこのことについて、こう記しました。「キリストは真の人とされた……イエスは自ら、人性から切り離せないものすべてをその身に背負われた」 そこには成熟していく過程も含まれています。
キリストは、御父からみことばを教えられる中で成熟していかれました。
朝ごとに私を呼び覚まし、
私の耳を呼び覚まして、
私が弟子として聞くようにされる。(イザヤ50:4)
キリストはまた、堕落した世界での人生の試練や苦難を通して成熟されました。ヘブル人への手紙の著者は、「キリストは……お受けになった様々な苦しみによって従順を学[ばれた]」と述べています(ヘブル5:8)。イエスの従順は、どの段階においても完全なものでした。しかし、苦難を通して、イエスはさらなる従順、そしてさらなる成熟へと成長していかれたのです。
成熟のための手段
キリストは、単なる成熟の「型」であられるだけではありません。キリストこそ、クリスチャンの成熟の手段そのものです。実は、木と結ばれていて初めて実ります。スコットランの町ワムフレイの牧師ジョン・ブラウン(John Brown of Wamphray)は、こう述べています。
主イエスから流れ出る恵みの樹液によって、罪を殺すことができ、また新しい人は成長させられる。しかし、主イエスと結ばれ、信仰によってキリストと一つにされなければ、決してその樹液を受けることはない。
成熟は、「キリストのうちに」形づくられていくものです。
この成熟は、キリストによって定められた手段を用いることで形づくられていきます。パウロは、エペソ人への手紙4章で、イエスが教会に「牧師また教師」を与えられたこと、また彼らは私たちが「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ために与えられていると述べています(エペソ4:11, 13)。神がご自身の教会に与えられた牧師による益を受けるために、「私たちはもはや子どもではなく、……どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、……あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです」(エペソ4:14, 15)。みことばの教えに耳を傾けることは、教理的な安定をもたらし、偽りの教えによって間違った方向へ吹き流されることのないように私たちを守ります。すなわち、私たちのかしらであるキリストに似た者となるよう導くのです。これが、成熟です。このような成熟をみことばを聞く人々のうちに見ることこそ、説教者の目指すところです。「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです」(コロサイ1:28)。
キリストに似た者としての成熟は、この世界で苦難を経験することによってももたらされます。ローマ人への手紙5章3-4節に、こう記されています。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」 堕落した世界での人生の試練や困難は、私たちのうちに、キリストに似た者としての品性を形づくるのです。
みことばの教えによって恵みを受け、人生の試練を通して聖められていく中で、私たちはますます成熟していきます。箴言はこう語っています。「知恵のある者に与えよ。/彼はますます知恵ある者となる」(箴言9:9)。また、苦難は「これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせ」ると教えられています(ヘブル12:11)。
未熟さの現れ
成熟とは、キリストに似た者となることです。しかし、成熟の反対である未熟さを見ることで、私たちは成熟を確認することもできます。ヘブル人への手紙5章12-14節には、未熟さに関する説明が詳しく記されています。信仰者は「神が告げたことばの初歩」について無知であり、「固い食物ではなく、乳が必要になって」いて、「善と悪を見分ける」ことができないとされています。乳飲み子や幼子として振る舞うことにも、それぞれふさわしい時期はあります(一ペテロ2:2; 一コリ13:11)。しかし、クリスチャンは本来、教理について無知なままでいたり、正しいことと間違っていることとの区別がつかないような状態でいたりするべきではありません。クリスチャンの成熟は、まったくもって、これらとは正反対のものです。
もう一つ未熟さのしるしとして、コリント人への手紙第一3章1-3節に説明されています。パウロは、コリントの信徒たちを「キリストにある幼子」と呼び、「あなたがたの間にはねたみや争いがある」と言っています。教会内の指導者をめぐる分裂は、霊的な未熟さの現れです。それと対照的に、成熟したクリスチャンは、信仰者同士の一致を愛します。
結論
クリスチャンは、この世における生涯において完全な成熟に到達することは決してありません。それでも、成長は常に必要です。私たちは、「救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」という召しを受けているのです(二ペテロ3:18)。私たちの成熟が完成するのは、天においてです。私たちがキリストを見るとき、私たちはキリストに似た者になります(一ヨハネ3:2)。その日に初めて、私たちは成熟における完全な栄光を得るのです。ですから、今は、私たちは「主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(二コリ3:18)。
完全にキリストに似た者とされる成熟の日は、必ず訪れます。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです」(ローマ8:29)。私たちは、必ずキリストにあって成熟した者になります。私たちに与えられているのは、なんとすばらしい希望でしょうか!
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

