
ローマ・カトリック教会における祭司中心の救済論の発展
2026年07月09日(木)16世紀における救済論の改革
16世紀における聖書的な救済論の再発見は、一度に起こったわけではありませんでした。まず、初期の宗教改革者たちが、義認という言葉の意味を再発見しました。彼らは、この言葉が「義なる者にする(to make righteous)」の意味ではなく、「義と宣言する(to declare righteous)」の意味であると気付いたのです。そしてその理解は、義認の手段因は洗礼ではなく信仰のみであるという認識へと導きました。つまり、宗教改革者たちが最初に発見したのは、中世後期の教会が、人間の大きな問題に対する解決策について、歪んだ理解を持っていたということでした。
彼らは時間をかけて、聖書の本文を注意深く研究し、その教えをローマ・カトリック教会の教えと比較していきました。その中で、ローマ教会による救いの解決策に対する理解が歪んでいたのは、問題そのものに対する理解が歪んでいたからであると見出しました。ローマ教会の救済論あるいは救いの教理(解決策)が、当時に見られる形で形成されたのは、アダムの罪の結果(問題)に対するローマ教会の理解ゆえです。前回の記事で見たように、ローマ・カトリック教会は、アダムが堕落した際、義化と聖化をもたらす「さらに加えられた恵み(superadded grace)」が失われたと教えていました。この見解によると、アダムとその子孫は、超自然的な存在の秩序に再び引き上げられるためにその恵みをもう一度得る必要があります。そして、それはローマ・カトリック教会の秘跡を通して回復されると考えられていたのです。
宗教改革者らが聖書を研究する中で、彼らはローマ・カトリック教会の人の堕落に対する教理が聖書本文の教えを十分に捉えていないと考えました。彼らは、堕落において、人は単に「さらに加えられた恵み」の賜物を失ったに過ぎず、その本性はほとんど、あるいは全く損なわれなかった、という理解は誤りであると考えるようになりました。むしろ、後にウェストミンスター信仰告白が表現している通りに、堕落について理解したのです。
この罪によって彼らは原初の正しさと、原初の神との交わりから堕落し、そのようにして罪のうちに死んだものとなり、霊魂と体のすべての部分と機能において、全面的に汚れたものとなった。(WCF 6.2)
この堕落した状態を表す神学用語として、後に用いられるようになったのが、「全的堕落(total depravity)」です。
繰り返しますが、何を「問題」とするかが、その「解決策」、すなわち救済論の理解を左右するという認識は重要です。ペラギウスの救いの教理は、彼の「問題」に対する理解ゆえのものです。ローマ教会の救いの教理もまた、彼らの「問題」に対する理解に基づくものです。死んでいる人を救うことと、傷ついている人を救うこととでは、必要とされる手段がまったく異なるのです。
改革派の諸教会は、人の問題に対する神の解決策を、神が人との間に結ばれた契約という枠組みで説明しました。ウェストミンスター信仰告白は、この聖書的な救いの教理について、最も明確な宣言の一つを提示しています。以下の内容は、主にこの信仰告白を参照したものです。読者の方々には、ぜひ聖書の参照聖句が併記されたものを入手していただき、それらを一つひとつ調べることをお勧めします。
ウェストミンスター信仰告白が説明するように、堕落の前、神はアダムと契約を結ばれました。「そこでは命がアダムに、そして彼にあって、その子孫に、約束された。完全な、本人自身の服従を条件として」(WCF 7.2)。重要な点として、またローマ教会の教えと対照的な点として、アダムは、堕落前、律法に従う力と能力を持っていました(WCF 4.2; 19.1)。さらに、原初の正しさ(original righteousness)はアダムの本性の一部でした。それは彼が神のかたちに創造されていたからです(WCF 4.2; 6.2)。それは、ローマ・カトリック教会が教えたように、彼の本性に「さらに加えられた恵み」ではありませんでした。
人の堕落により、アダムは律法に完全に従うことはできなくなり、その結果、最初の契約の条件を満たすことはできなくなりました。したがって、神は:
……通常、恵みの契約と呼ばれている第二の契約を結ぶことをよしとされた。そこでは、主は罪人に、命と救いをイエス・キリストによって無償で提供しておられる。そして、彼らからは救われるためにイエス・キリストへの信仰を要求し、永遠の命に定められているすべての者たちには、進んで信じるように、また信じることができるようにするために、かれの聖霊を与えることを約束しておられる。(WCF 7.3)
神のひとり子イエス・キリストは、永遠の計画において、神と人との唯一の仲介者として任命されました(WCF 8.1)。イエスはご自分の民を救うために任命されました。この民とは、神がご自分の無償の恵みと愛によって、「世界の基が置かれる前に、その永遠不変の計画と、御意志の秘められた意向とよしとされるところに従い」(WCF 3.5)、キリストにあって選ばれた人々です。
主イエスは、その完全な従順と、永遠の御霊によってただ一度御自身を神に献げられたそのいけにえにより、御父の義を完全に満足させられた。そして御父がかれに与えられたすべての者たちのために、和解だけでなく、天の御国の永遠の相続財産をも獲得されたのである。(WCF 8.5)
キリストが買い取られた贖いは、歴史を通してすべての選ばれた者に適用されます(WCF 8.8)。
堕落した人は、単に傷ついたり病んでいたりするだけでなく、罪と死の状態にあるため、自分の力ではこの買い取られた贖いを受け取ることはできません。そのため神は、キリストがラザロを墓から呼び出されたように、選ばれた者を死の状態から有効に召し出されます。神は彼らを再生させ、霊的ないのちを与え、彼らをイエス・キリストへ引き寄せられます(WCF 10.1)。神は、自らが召される者たちを、無償で義とされます。彼らが義と認められる、あるいは義と宣言されるのは、彼ら自身の行いに基づくのではなく、ただ信仰によって受け取られる転嫁されたキリストの義に基づくのです(WCF 11.1; 14.2)。有効に召され、義と認められた人は、その生涯を通して聖化されます。
体全体に及ぶ罪の支配が破壊され、その体のさまざまの欲望はますます弱められ殺されていく。そして彼らは救いに伴うあらゆる恵みの賜物を受けて、ますます命を与えられ、強められて、それなしには誰も主を見ることができない真の聖さの実践に向かうのである。(WCF 13.1; 16.1-7も参照)
ローマ・カトリック教会とは異なり、改革派の諸教会は以下のように教えています。
神がその愛する御子において受け入れ、有効に召し、自らの霊によって聖とされた者たちは、恵みの状態から、全面的にも、また最終的にも、落ちてしまうことはあり得ず、その状態の内で確実に最後まで堅忍し、そして永遠に救われる。(WCF 17.1)
次回の記事では、オランダの一部の改革派神学者たちが改革派信仰告白的神学に不満を抱くようになり、その神学を再びローマ教会の方向へと引き戻そうとした動きについて取り上げます。また、ドルト(ドルトレヒト)会議における改革派教会の応答についても見ていきたいと思います。
1 本文中の引用文はすべて以下の翻訳を採用。『改革教会信仰告白集——基本信条から現代日本の信仰告白まで』関川泰寛、袴田康裕、三好明編、2014年、教文館。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。