
恵みをもって母親としての困難に向き合う
2026年08月29日(木)クリスチャン生活における希望の役割
信仰、希望、愛という、三つのキリスト教の徳は、どれも重要です。愛が一番すぐれているというのは言うまでもありませんが(一コリ13:13)、それは信仰の重要性を否定しているということではありません。私たちは信仰の持つ意味について深く学んできましたし、愛が重要であることも理解しています。しかし、この三つの徳の第三の要素である希望については、クリスチャンの歩みの中でしばしば見過ごされがちではないでしょうか。
ローマ人への手紙5章で、根本的に誤解されやすい言葉があるとすれば、それは「希望」です。パウロの用いる「希望」という言葉を理解するとき、私たちは「不確かさ」という要素を持ち込んでしまうことがよくあります。私たちが「希望」という言葉を使う場合、それはおおかた、「こうなってほしい」という願いや願望を表すものです。それは、本当に起こるかどうかわからないことに対する期待のようなものでしょう。しかし、新約聖書における「希望」という言葉は、そのような意味で使われているのではありません。私たちが聖霊によって新生されるとき、私たちはクリスチャンとしての人生を歩んでいく確信の土台を形づくる望みへと新しく生まれます。希望と信仰の唯一の違いは、信仰はすでに起こったことに目を向けて、そこに信頼を置くことであるのに対し、希望はただその信仰が前(将来)に向けられている状態なのです。
新約聖書で用いられているたとえでは、希望の性質は錨(いかり)のようなものだと表現されています。このみことばによると、私たちの希望は「たましいの錨」です。新約聖書の中には、この航海に関する比喩が頻繁に登場します。不安定な人々は錨を持たない船に例えられ、さまざまな教理の風によって右へ左へと揺れ動かされます。そのような人々は動揺したり迷ったりしますが、聖霊によってたましいに植え付けられる希望はそのようではありません。この希望は、土台と安定と確信を与えます。希望は錨であり、揺れ動かされないように私たちを支えます。この希望こそが、神が将来に約束されたすべてのことを、一つ残らず神が必ず成し遂げてくださると確信させるのです。
義認がもたらす実は、そのような希望です。義認は、ある意味で、神がご自身の贖いのみわざにおいて私たちに約束してくださったすべての恵みに対する手付金のようなものです。希望は、私たちのうちにおられる聖霊によって造られます。パウロは他の箇所でも、神が私たちに聖霊という保証(あるいは手付金)を与えてくださっていると語っています。それは、私たちに与えられている将来に対する完全な確信です。希望とは、深呼吸しながら、何とか上手くいくことを願うことではありません。希望は、神が約束されたことを必ず成し遂げてくださるという確信なのです。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

