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TULIPと改革派神学:聖徒の堅忍(Perseverance of the Saints)

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ピリピのクリスチャンたちに向けて、パウロはこう書いています。「あなたがたの間で良き働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」(ピリピ1:6)。ここに、神の約束があります。神が私たちの魂のうちに始められたことは、神が完成してくださるという約束です。すなわち、聖徒の堅忍について、改革派神学の古い原理が述べているのは次の通りです。もし信仰があるなら — つまり、もし本物の信仰を持っていて、その人が救いの恵みの中にあるなら — その人は信仰を決して失うことがありません。もし信仰を失ったのなら、初めから信仰が無かったということです。

信仰告白をしながら、後にその告白を否定したり取り消したりする人は多くいます。使徒ヨハネは、弟子の仲間から出て行った者たちについて、「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかった」と記しています。もちろん、離れてしまうまでは、彼らは端から見れば完全な「弟子」であったことでしょう。表面的に信仰を告白していましたし、イエスも、たとえ彼らが真の信仰を持っていなくても、ただ告白することは可能だと認めていました。イエスの言葉にこうあります。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタイ7:23)。山上の垂訓の最後でも、イエスは同じことを警告されています。終わりの日に多くの者がご自身のもとにきて、「主よ、主よ、あなたの御名によって、私はあれもこれも行ったではありませんか」と近づいてくるが、イエスは「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」、とはっきりと言う、と宣告されました。イエスは決して、「わたしは一時的にあなたを知っていたが、その後、あなたは冷たくなりわたしを裏切った。いや、おまえは決してわたしの目に見えない教会の一員ではなかった」とは言われません。神の選びの一番の目的は、神の民を安全に天の御国に連れていくことです。従って、神が始められたことは、神が完成させると約束されています。神は、私たちのクリスチャン生活を始められるだけでなく、私たちの信仰を最後まで保証するため、きよめ、罪を責め、助けてくださる聖霊が共に歩んでくださるのです。

ここで強調したいことは、信仰の堅忍は私たちの努力次第ではない、ということです。新生した後でも、私たちは罪を犯します。深刻な罪にも陥ります。私たちは、クリスチャンが非常に深刻な落ち込みを経験することはあり得ることだと考えますし、バックスライドや道徳的な過ちなども大いにあり得ることです。聖霊を冒涜する罪以外には、本当に回心したクリスチャンでも犯し得ない罪は無いのです。

例えば、旧約聖書に登場するダビデを見てみましょう。ダビデは確かに神の心にかなう人であり、確かに、新しく生まれ変わった人でした。彼には神の霊が宿っていました。神に関する事柄に深く熱い愛を持っていました。しかしこの男は、姦淫の罪を犯しただけでなく、その女の夫を戦争で死なせるよう仕向ける計画にも関与したのです。これは、まさに謀略殺人です。これは深刻な問題です。預言者ナタンがダビデに語った言葉によって、ダビデは深い悔い改めに至ったことがわかりますが、ここで注目すべきなのは彼が堕落したということ、そしてその堕落はひどいものだったということです。

使徒パウロは、自分の霊的な強さを誇大に評価しないよう警告しています。彼はこう言います。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(一コリ10:12)。私たちは大変な悪事に手を染めることがあります。使徒ペテロも、予め警告されていたにも関わらず、キリストを拒絶し、「私はイエスを知らない」と誓いました。公にイエスを裏切ったのです。まさに主に対する反逆です。ペテロはこのことを警告されたとき、そんなことは起こり得ないと言いました。しかし、イエスはこう言われました。「シモン、シモン、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)。ペテロは確かに堕落しましたが、立ち返りました。彼は回復したのです。堕落は一時的なものでした。私たちは、真のクリスチャンであっても、徹底的な落胆、深刻なつまづきを経験することはあります。しかし、完全かつ最終的に神の恵みから堕落することは決してない、と考えるのです。

聖徒の堅忍というこの短いフレーズは、危険なほど誤解を招くと思います。この言葉は、「堅忍」が私たち自身によってなされるものであるかのような印象を与えます。聖徒は信仰において堅忍、すなわち忍耐します。神による有効召命を得て聖霊の力によって生まれ変わった者は最後まで耐え抜くと、私は信じています。しかし、彼らが耐え忍ぶのは、神の憐みを熱心に利用するからではありません。私たちが信仰を続けることができる唯一の理由は、私たちが神によって維持され、保たれているからです。ですから、私は聖徒の維持(堅持)という表現を好みます。なぜなら、私たちが恵みの状態に保たれるプロセスは、神によって成し遂げられるものだからです。私自身が神に保たれているという確信は、私の忍耐力によるものではありません。私の確信は、キリストがその恵みととりなしの力によって私を堅く保ってくださることにあります。主は、私たちを無事に家に帰してくださるのです。

参照記事:

この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。
R・C・スプロール
R・C・スプロール
R・C・スプロール博士は、リゴニア・ミニストリーズの設立者であり、フロリダ州サンフォードにあるセント・アンドリューズ・チャペルの創立牧師、また改革聖書学校(Reformation Bible College)の初代校長を務めた。彼の著書は『The Holiness of God』など100冊を超える。