TULIPと改革派神学:聖徒の堅忍(Perseverance of the Saints)
2022年07月12日(木)福音の意味とは?
2022年07月25日(木)「Coram Deo」とは?
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私の目の前に母が立ちはだかり、両手を腰に当て、燃えるような目つきで私をにらみながら、大声でこう言ったのをよく覚えています。「いったいどういうことなの、坊や」
私は本能的に、母が求めているのは理論についての抽象的な答えなどではないことを察知します。母の質問は、質問というよりも遠回しの非難でした。「なぜ、あなたはそんなことをするのか」と責める言葉とも言えます。自分の行動を正当化できるだけの考えを言ってごらん、と私に挑戦しているのです。当然、そんなものは私にはありません。
最近、ある友人が真剣な顔で、私に同じ質問をしてきました。彼は「クリスチャンとして生きるって、いったいどういうことなんだ?」と尋ねてきたのです。彼が知りたがっていたのは、クリスチャン人生が包括的・究極的に目指すものは何なのか、ということでした。
質問に答えるために、私は神学者の特権を利用してラテン語の用語を教えました。「クリスチャン生活において肝心なのは、Coram Deoの生き方だ。Coram Deoという言葉に、クリスチャン生活の本質が詰まっている」
このフレーズは、字義的には、神の臨在の中または神の御顔の前で行われることを指します。Coram Deoに生きるとは、神の臨在の中で、神の権威のもとで、神の栄光のために全生涯を生きるということです。
神の臨在の中で生きるということは、私たちがどこで何をしていても、すべては神のまなざしの下で行っていることを理解することです。神は遍在しておられる方です。どれだけ遠くに逃げようと、神の鋭いまなざしが届かないところはありません。
神の臨在を意識することは、神の主権を強く感じることでもあります。神が神である以上、そのお方はまさしく主権者であるという事実を受け入れること — これは聖徒たちに共通する経験です。サウロがダマスコへの道で復活したキリストの眩い輝きに直面したとき、彼は「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。このとき彼は、自分に語りかけているのが誰なのか、わかりませんでした。しかし、それが誰であれ、権威を持って自分を支配しておられる方だということだけはわかったのです。
神の主権のもとに生きることは、罰を恐れて神の権威にしぶしぶ服従する、ということではありません。人生において、神に栄光を捧げること以上に崇高な目標はないことを認識することです。私たちのいのちは生きたささげ物であり、神に礼拝と感謝を捧げるべきなのです。
全生涯をCoram Deoに生きることは、誠実な人生を送ることです。それは、神の威厳の中において統一性と、一貫性を見出す、一体性のある人生です。断片的な人生は、崩壊の人生です。このような生き方は、不一致、不和、混乱、対立、矛盾、そして混沌に満ちています。
自分の人生を、宗教的な部分と非宗教的な部分とに分けてしまうクリスチャンは、「クリスチャンとして生きるとは、いったいどういうことか」という質問の答えを理解できていません。その答えは、人生のすべてが宗教的であるか、あるいは人生のすべてが宗教的でないかの、どちらかしかあり得ないからです。人生を宗教的な部分と非宗教的な部分とに分けることは、それ自体が神に対する冒涜です。
つまり、鉄鋼業、弁護士、主婦など、職業が何であれ、その仕事をCoram Deoで全うしているなら、その人はたましいを救う伝道者としてその職務を全うしていることになります。ダビデは、主の召しに従って羊飼いになったときも、王として特別な祝福の油を注がれたときも、変わらず信仰に生きていました。イエスが父親のもとで大工仕事をしていたときも、ゲッセマネの園にいたときも、常に信仰に生きておられたのと同じです。
人がどのような時も変わらず、一貫して生きるとき、その生き方は誠実だと言えます。それは、教会の中でも外でも、ぶれることのない基準がある人生、神の御前に隠すところのない人生です。その人生では、すべてが主に対してするように行われます。ご都合主義的な生き方ではなく、神の原則に従い、神の前に謙虚に、反抗せずに生きる人生です。神の言葉によって捕らえられた良心に従って生きる人生です。
Coram Deo — 神の御顔の前に。クリスチャン人生の何たるかは、これに尽きます。この生き方に比べて、私たちの他の目標や野望は何と些細なものでしょうか。
さらなる学びのために:マタイの福音書24:13、ローマ人への手紙8:31-36、コリント人への手紙第二4:7-16、ヘブル人への手紙6:9-12、10:35-39