
聖書を暗誦し実践する
2025年10月21日(木)
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2025年10月30日(木)歴史物語の読みかた
編集者注:これはテーブルトーク誌の「解釈学」というシリーズの第八章の記事です。
聖書は、神による万物の創造、人類の罪への堕落、恵みの契約とそのさまざまな執行方法による贖い、そして終末的な栄光における万物の完成という、契約的な物語を記録しています。神ご自身こそがこの物語の大いなる語り手として、後のことを初めから告げる方(イザヤ46:10)であり、ご自身がその初めであり終わりなのです(イザヤ44:6; 48:12)。これは、三つの異なる言語で、およそ1500年に渡って語られた古代の物語です。古代世界の文学的手法は、私たち現代人のものと必ずしも同じではないため、これらの記録を読み進めるとき、理解が難しいこともあるでしょう。そこで、この記事では、聖書に記されている古代の歴史物語を読む際に、その技法をよりよく理解し、味わい楽しむ助けとなる手法を三つ紹介します。
1. 聖書の統一された物語は、必ずしも年代順に記されているのではないことを理解する
これは古代の文学的手法に見られるもので、著者がまず一つの事柄を提示してから、その出来事自体やそこから派生して起こったことなど重要な詳細に戻りつつ語る、というものです。聖書では、ときに、記録された出来事の順序において、年代順に語ることよりも神学が優先されることがあります。例えば、創世記2章は天地創造の第七日について述べることから始まりますが(1-3節)、章の残りの部分では時間を遡り、第六日の出来事を詳細に見直しています(4-25節)。創世記10章では、いわゆる諸国民の表と呼ばれる、ノアの子孫の名前と家系の記録があり、「その氏族、その言語、その地、国民ごと」に記されています(創世10:31)。しかしそのすぐ後の章では、バベルの塔の出来事に焦点を当てるために、再びすべてが一つの氏族、一つの言語、一つの地、一つの国民であった時代に戻るのです。これと同じ現象が、サムエル記第一16章と17章にも見られます。サムエル記第一16章の終わりでは、ダビデはサウルに愛され、王の道具持ちとして付きっきりで仕えています。しかし次の章では、ダビデはサウルに知られておらず、道具の扱いかたも知りません。
2. 可能な限り、聖書自体によって聖書を解釈する
聖書の物語は、記録された出来事と、その出来事に登場する人物たちの談話や発言の両方が含まれています。ときには、その出来事のクライマックスとも言える談話から、その出来事がなぜ記録されたのか、またそれが何を意味しているのかを理解する手がかりを得られることがあります。
例えば、列王記第一17章では、アハブ王に三年間の干ばつを宣告する預言者エリヤが登場します。その後、エリヤは川に向かい、そこで烏から食べ物を与えられながらしばらくの時を過ごします。そして、主の命令により、彼は約束の地から離れて一人のやもめと彼女の幼い息子とともに住みます。この息子は死にますが、エリヤは奇跡によって少年を死からよみがえらせます。ここで記されているやもめの女の応答が、この一連の出来事全体の鍵となるのです。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」(一列王17:24)。同じ手法は次の章でも用いられています。エリヤがバアルの預言者たちと対決し、彼らを負かした後、民がこう宣言するのです。「主こそ神です。主こそ神です」(一列王18:39)。偽預言者や偽りの神々に溢れている時代において、聖書は言葉と行いの両方を通して、主が真の神であり、その預言者は神の真理を語っているということを証ししているのです。
3. 意外な展開に注目する
ときに、奇妙なことや思いがけないことの記録が、将来に起こる劇的な出来事の前兆や期待を表していることがあります。古代の歴史物語は、これらを予行演習のように繰り返し語ることで伝えます。ですから、繰り返される「反響」には必ず耳を傾けてください。例えば、出エジプト記2章では、モーセの誕生の記述のすぐ後に、ヘブル人を打っていたエジプト人をモーセが殺したということが記録されています。その後、モーセ自身の民が彼に不満を述べたため、モーセは荒野へ逃げ、そこで40年間さまようことになります(11-15節)。私たちはこの短い物語から、何を思い巡らすべきでしょうか? 「自分たちの身に降りかかる罪の罰」について教えているのでしょうか(民数32:23)、それとも、もし神が殺人を犯したモーセでさえも用いられるなら、私やあなたのような者も用いてくださるはずだと教えているのでしょうか? いずれも間違いではありませんが、それが物語の中心ではないでしょう。これらの出来事は、モーセの生涯でこれから起こることを予見しているのです。モーセは、神に用いられる器として、神の民すべてを救い出そうとしているところであり、そこには何千人ものエジプト人の犠牲が伴います。その後、モーセは再び40年間、同じ荒野で同胞のヘブル人とさまよい続けることになり、しかもその間、民はモーセに対して不平や不満を言い続けるのです。
結論
聖書に見られる古代の歴史物語という芸術的な文学形式は、美しく、かつ洗練されています。これらの物語を読むときは、丁寧に読むこと、そして記されていることも記されていないことも含め、あらゆる細部に目を向けて思考を巡らすことが大切です。最後に、最も重要なこととして、聖書のそれぞれの物語がどのようにして一つの大きな物語として結び合わされ、イエス・キリストという方とその御業という物語の頂点へとどのように向かっていくのかを理解するために熱心に取り組むことをおすすめします(ヨハネ5:39, 45-47; ルカ24:44)。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

