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聖書を暗誦し実践する

編集者注:これはテーブルトーク誌の解釈学というシリーズの第七章の記事です。

聖書を学ぶことは、言語を学ぶことに似ています。いずれも、その中にどっぷりと浸ること(immersion)が最善の学習方法です。子どもが言語を話したり読んだり、書いたりできるようになるのも、その言語を繰り返し使い、練習し、実際に使うことで習得していきます。同じように、私たちが神のことばを読むときも、最善の方法は聖書を習慣的に読み、みことばを心に留めて祈り、家族の日常生活に織り入れ、礼拝説教に耳を傾けることです。つまり、聖書を日々の生活に密接に組み込むほど、私たちはよりみことばを覚え、その内容を宝とするようになるのです。

1. 聖書通読を習慣とする

まず、私たちは聖書全体を習慣的に読むべきです。私たちが言語を学ぶとき、まず必要になるのは語彙と文法と話す内容です。興味深いことに、詩篇1篇は私たちに昼も夜も神の律法を口ずさみなさいと勧めているのではなく、私たちがすでにそうしていることを前提としています(詩篇1:2)。しかし多くのクリスチャンは、みことばを口ずさむ(黙想する)方法を知りません。私たちはまず何から始めるべきでしょうか? 明らかに、第一にすべきことは聖書を読むことです。

聖書を初めから終わりまで読んでいるクリスチャンは、さほど多くないようです。自分がどれだけ聖書を読んできたかを振り返ってみると、福音書やローマ人への手紙8章など、お気に入りの箇所ばかりに自然と引き寄せられていないでしょうか。しかし私たちは聖書のすべての部分を宝とすべきです。聖書が神のことばであるという事実だけでも、十分な理由でしょう。詩篇119篇は、主の律法に対する心からの愛が表現されています。それは、詩篇の作者が律法の主である神を心から愛そうとしていたからです。神がどのようなお方であるか、その全体像を知るためには、私たちは聖書全体の幅広い内容が必要なのです。これを実行するために最善の方法は、計画を立てることです。

通読プランは数多く存在しますが、一日三〜四章読み続けると、だいたい一年で聖書全体を読み切ることができます。聖書全体を読めば読むほど、私たちは聖書の語彙や文法、また表現のパターンを身につけるようになり、それぞれの箇所が互いを説明し合うようになります。もし私たちが、神のことばを着実に読み進めるための日々の個人的な礼拝の時間を確保しないのであれば、どうしてアポロのように「聖書に通じ」た人となることができるでしょうか?(使徒18:24)

2. 聖書を祈りながら読む

聖書を読むことは、単なる個人的な「デボーション(献身)」の表れ以上のものであるべきです。それは神を求める礼拝の行為であり、私たちはそれを祈りを通して主に表現します。私たちが祈るべき祈りは、神のみおしえのうちにある奇しいことに私の目を開いてください(詩篇119:18)というものだけでなく、聖書の表現を祈りの中に取り入れるべきです。「この箇所は神について何を示しているのだろうか」と問いかけることで、理解しやすい箇所も、難解な箇所も、実り多きひとときとなるはずです。

例えば、詩篇90篇1-2節には、神が代々にわたって私たちの住まいであり、「とこしえからとこしえまで」主は神であられることが書かれています。この箇所から、このように祈ることができるでしょう——「主よ、あなたが私の子どもたちも、私自身も、あなたとともに住み、あなたも私たちとともにおられることを感謝します。あなたが永遠の神であるからこそ、あなたは私たち家族への約束をとこしえまで守ってくださいます」 祈りを通して神の栄光を求めるとき、私たちは礼拝を通して神に近づけられます。読んだ箇所が歴代誌第一の九章にもわたる系図であろうとも、私たちが見るのは単なる名前の羅列ではなく、神の契約に対する誠実さを目の当たりにすることができるのです。

3. 家族の習慣に聖書を織り込む

私たちは、「主を愛すること」には、座るときも、立つときも、歩くときも、子どもたちにみことばを語ることが含まれていると知っています(申命6:6-7)。これを最もわかりやすく実践する方法は、個人的な礼拝を家庭礼拝へと拡大し、家族でともに聖書を読み、祈り、賛美することです。家庭礼拝を短く、簡潔に保つことで、これらの礼拝の時間は実り多きものとなり、全く行わないよりもはるかに良いものになります。

自分自身で、また家庭の中で聖書を読み、祈ることは、一日を通して自然と聖書のことについて語り合うことへと繋がります。夫婦がみことばに深く浸り、子どもがいる家庭であれば彼らも巻き込むことで、デボーションの習慣が身につき、聖書を知り、覚える助けとなります。そして、このような習慣は毎日の会話に自然と溢れ出てくるものです。より多くのみことばを心に蓄えるほど、心から溢れ出るものが私たちの口から語られるようになります。

4. 聖書のメッセージを頻繁に聞く

忠実に聖書を教える説教を聞くとき、私たちはキリストの声を聞いています(ローマ10:14-17; エペソ2:17)。神の御子についての証を宣べ伝える説教者たちには、御霊の力が伴います(一コリ2:1-5)。聖書の講義や説教をオンラインで聞くのももちろん良いですが、キリストに出会い、神の民に出会う公同の礼拝は、はるかに素晴らしいものです。感謝なことに、主は週ごとに安息日を与え、復活し天に昇られたキリストがおられる天に私たちの心を向け直す機会を与えてくださいました。個人的な礼拝、また家庭礼拝は、日々の生活の中で聖書に浸るひとときを与えます。しかし、公同の礼拝こそがこの過程の頂点であり、この場所でこそ、御霊が特別にみことばを私たちに深く刻み込み、それを実践させ、実践を通して覚えさせてくださるのです。

アウグスティヌスが、著書『キリスト教の教え』で助言しているように、聖書を読む最善の方法は、それを通して神を求め、神を喜ぶことです。聖書のページに刻まれている言葉は、主を指し示す「しるし」です。しかし、私たちが聖書を読み、聞くとき、本当に求めている「実体」は、三位一体の神です。聖書を学ぶことは、全魂を献げて取り組む働きです。私たちが神のことばを学ぶとき、御霊が御子の栄光を現してくださるようにと祈っているでしょうか? 私たちは神に愛される子どもたちとして、この身体と魂をもって神の栄光を現すことを追い求めているでしょうか? 聖書を覚え、身につけるために、あらゆる手段を用いて、祈りによって実践に結びつけようとしているでしょうか?


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ライアン・M・マグロウ
ライアン・M・マグロウ
ライアン・M・マグロウ博士は、サウスカロライナ州グリーンビルにあるGreenville Presbyterian Theological Seminaryのモートン・H・スミス組織神学教授であり、学部長であり、正統長老教会の教職長老でもある。著書に、『The Foundation of Communication with God』 『The Ark of Safety: Is There Salvation Outside of the Church?』 『A Divine Tapestry』などがある。