
歴史物語の読みかた
2025年10月21日(木)
福音書の読みかた
2025年11月10日(木)釈義とは何か
編集者注:これはテーブルトーク誌の「解釈学」というシリーズの第九章の記事です。
今日私たちは、誰の見解であれ他の人の見解より特権的に扱われるべきではない、真理は誰にも独占できない、結局すべては意見の問題に過ぎない、といった考えをしばしば耳にします。このような視点は聖書にも適用され、聖書の意味は自由に解釈でき、無限に変形できるかのように思われています。しかし、改革派の伝統は一貫してこの視点を退けてきました。それは単純な理由です——聖書は神のことばであり、神はご自身のことばがどのように読まれるかを軽んじておられないからです。最終的には、聖書は神が定められた方法で読まなければなりません。
聖書本文を解釈し理解するのは、釈義(exegesis)という領域に当たります。釈義は、解釈学(hermeneutics)と密接に関係しており、これは聖書に取り組み、解釈していく原則を学ぶ学問です。したがって、釈義とは解釈学を特定の箇所に適用することを指します。この記事では、改革派の伝統に基づいた聖書解釈の原則をいくつか紹介します。
私たちはへりくだって聖書を解釈しなければならない
聖書は普通の書物ではありません。聖書は唯一無二の書物であり、まさに神のことばであり、信仰と実践のための唯一の誤りなき規範です。ですから、私たちが聖書を読むということは、生ける神が私たちに何を語ろうとしておられるのかを真剣に見極めようとする行為なのです。他のあらゆる権威は——たとえ聖書の解釈の方法を私たちに教えてくれるものであっても——聖書に従属するものに過ぎません。したがって、私たちは人間の著者が意図した意味を探りながら、最終的には神という著者ご自身が意図しておられることを見極めることを求めます。
これはつまり、私たちが聖書の上に立つのではなく、その下に身を置くことを意味します。ある箇所を一読したとき、たとえその意味が自分にとって不快なものであっても、その箇所について言い逃れをしたり無視したりすることはしません。例えば、ヨハネの福音書6章で、イエスはご自分を信じる者が信仰に導かれるとき、神の選びの恵みが先にあることについて語っておられます。多くの人はこの教えを受け入れがたく感じ、離れ去っていきました(ヨハネ6:66)。今日でも同じように、聖書の語る選びの教えについて何とか言い逃れをしようとする人は少なくありません。しかし私たちは、聖書の教えを自分の望むかたちにしようとするのではなく、ありのままに理解し、従うことに心を注がなければなりません。
私たちは聖書を忠実に解釈しなければならない
聖書を忠実に解釈するとは、その箇所が本来の意図どおりに読まれるように読むことを意味します。このような読みかたは、文学のジャンルや比喩表現に注意を払い、歴史的・文学的文脈を考慮し、その箇所が書かれた時代にどのように理解されていたかという点にも考えを巡らせます。この方法は、歴史的・文法的釈義(historical-grammatical exegesis)と呼ばれるもので、著者が用いた言葉とその文脈における意味に焦点を当て、著者が伝えようとした意図を明らかにすることを目的としています。
聖書を忠実に読むことは、その箇所についていくつかの重要な問いを立てることから始まります。例えば、このような問いです——著者は誰か? この書物(箇所)が書かれた背景は何か? これが書かれた目的は何か? 文学的なジャンルは何か? これらの問いかけに対する答えは、多くの場合本文自体から見い出すことができますが、ときには注解書や聖書辞典など、他の資料が役立つこともあるでしょう。
言葉には通常複数の意味や含意があり、それらの可能性の中——言葉の意味の幅(semantic range)——からどの意味が意図されているかを判断するには、文脈が助けとなります(例として、新約聖書で「world(世、世界、全世界、世界中)」が使われているさまざまなパターンを参照。マタイ4:8; 13:22; 25:34; マルコ4:19; ルカ2:1; ヨハネ1:29; 3:16; 使徒17:6; ローマ3:6; ガラテヤ6:14; エペソ2:2)。他にも、「ですから」「むしろ」「しかし」「それで」などのキーワードは著者の思考の流れを示し、文法は著者の強調したいポイントを示すことがあります(例・ルカ12:5)。
本文のジャンルを見極めることも、著者の意図を理解する助けとなります。聖書には、詩文、預言、黙示文学、教訓などが含まれており、それぞれに独自の慣習があるため、それに従って意図された意味を汲み取らなければいけません。例えば、読んでいる箇所が詩文なら、かなりの確率で比喩表現や象徴が含まれており、それらは具体的事実以上の意味を示しています。黙示文学にも同じことが言えるでしょう。物語(散文)であれば、単に一連の出来事を伝えることが意図されているかもしれません。しかしこれらの出来事が、後に起こることを予見していたり、贖いの歴史の中でより大きな意味を持つようになることもあるのです。
聖書の箇所のこれらの側面を探ることで、その文章が書かれた当時に意図された意味がわかることもあります。そこから、現代の私たちにとって、その箇所が何を意味するかを理解しようと努めるのです。このプロセスには、キリストの到来に照らして聖書の意味を見極めることが含まれます。キリストがすでに来られた今、私たちはどのように戒めを理解し、物語を読むべきでしょうか。新約の教会の一員として聖書を読むとき、これを信じるための約束か、従うべき命令か、心に留めるべき警告か、理解すべき真理か、適用すべき慰めか、どのように受け取るべきでしょうか?
私たちは責任を持って聖書を解釈しなければならない
聖書の究極的な著者が神であられる以上、最終的な解釈は神が示されます。これはつまり、聖書は聖書によって解釈されるということです。ウェストミンスター信仰告白にはこのように記されています。「聖書解釈の誤ることのない規準は聖書自身である。それゆえに、聖書のどの箇所でも、その真の十全な意味(それは多様ではなく、一つである)について疑問があるときは、より明瞭に語っている他の箇所によって調べて知るようにしなければならない」(1.9)。理解が困難な箇所には、聖書の他の箇所を参照する必要がしばしばあります。聖書の最終的な解釈は、聖書の中にあります。伝統や教会の指導者や個人の意見など、その他の権威に頼るものではありません。
ウェストミンスター信仰告白はまた、「通常の手段を適切に用いることによって」(1.7)、聖書のメッセージは明らかにされると述べています。聖書はすなわち、他の本を読む時と同じように、通常の手段で——通常の規則や文法などを活用して——読むべきです。単なる推測や寓意的解釈、気まぐれな空想などの材料として読むべきではありません。また聖書は、「通常の手段を適切に用い」て、真剣に読むべきです。聖書を軽々しく扱ったうえで、「理解できない」と言い放つことはできません。
最終的に私たちは、聖書が私たちに何を語っているのかを知ることを願っています。神がどのような方で、キリストにあって私たちのために何をしてくださったのかを知ることが目的です。聖書のどの箇所にも、私たちの生活に適用できる意味が満ち溢れていますが、その適用が私たちの、信仰によるキリストとの結合から流れ出るものであることが重要です。私たちには、無条件に成功する人生が約束されているわけではありません。例えば、エレミヤ書29章11節では、神はバビロンに捕囚に取られていたイスラエルの民に、この祝福の希望を与えました。しかしキリストは、完全に従順な御子、真のイスラエルとして、神のすべての約束を受け継ぎ、神のすべての報いを受けるにふさわしい方です。そして、キリストと結ばれた私たちは、計り知れない祝福を得るのです(エペソ1:3-11)。これは良い知らせです。そして、この福音が、聖書のすべてのページにおいて明らかにされているのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

