
深刻な病いの中で望みを見出す
2026年02月19日(木)
ミニストリーで燃え尽きてしまったら
2026年03月06日(木)絶望とどのように向き合うか
編集者注:これはテーブルトーク誌の「クリスチャンのよくある悩み」というシリーズの第三章の記事です。
希望がいのちを慕い求めるとすれば、絶望はすべての終わりを慕い求めます。エニシダの木の下のエリヤのように(一列王19:1-10)、あるいは自分の生まれた日を呪うヨブのように(ヨブ3章)、またはあまりに激しい圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどであったパウロのように(二コリ1:8)、信仰者はときに、生ける望みを持つように新しく生まれながらも苦悩にとらわれ動けなくなるように感じるものです。
詩篇の作者はこう叫んでいます。
あなたの波 あなたの大波はみな
私の上を越えて行きました。(詩篇42:7)
ヨブは、「私の霊は乱れ、私の日は尽き……」(ヨブ17:1)と嘆きました。これらは、単なる感傷的な詩的表現ではありません。人が本来耐えられるはずの限界を超えるような苦難が実際に襲ってくる現実を映し出す言葉です。
絶望は、陰気で、不満を抱えていて、理解力に欠けたような人——つまり見るからに落ち込みそうな人——だけに訪れるものではありません。むしろ、チャールズ・スポルジョンやマーティン・ロイドジョンズ、ジョン・バニヤンといったような生き生きとした信仰者たちでさえ、深い苦悩と苦痛の時期を経験しました。絶望は、その人の気質や霊的成熟度にかかわらず訪れるのです。
絶望の中にある人は、ただ一つのことを望んでいます。それは、絶望からの解放です。この葛藤の本質は、解決も出口もないかのように感じられる、圧倒的な敗北感と虚しさにとらわれてしまう幻想です。詩篇の作者は、これを次のように表現しました。
私は大水の底に陥り
奔流が私を押し流しています。(詩篇69:2)
荒れ狂う海で必死に水をかくように、私たちは、誰からも見える場所にいながら、救いの手にあと一歩届かず、ただ溺れているだけのように感じることがあります。
絶望は、それが徐々に忍び寄るものであれ突如襲いかかるものであれ、心と魂が限界まで追い詰められるものであり、信仰者の希望の現実を歪め、身体も心も魂も力を失わせます。ですから、回復とは、弱さの中でキリストにより頼みつつ、従順、忍耐、希望といった信仰の「小さな」一歩を重ねる中で、認識と力を取り戻し、絶望の流れを少しずつ断ち切っていくことなのです。
悪い思考回路を断ち切る
バニヤンの『天路歴程』では、主人公クリスチャンが絶望の巨人の城に囚われていたとき、その暗闇は幻ではありませんでした。実際に触れて感じることができるほど、息の詰まるような現実だったのです。同じように、私たちも非常に厳しい状況の中にいることがありますが、絶望はその状況を無限にぐるぐると繰り返させ、キリストにある私たちの希望をわかりにくくさせます。物語の中でクリスチャンが解放されたのは、暗闇がなくなったからではなく、ポケットに入れていた約束の鍵を思い出したからでした。
神のことばが私たちの思考に割って入り、思考を変えさせるということが頻繁に起こる必要があります。見捨てられたように感じるとき、神は決してあなたを見放さず、あなたを見捨てないと約束しておられることを思い出してください。闇があまりに深く、神の御手も届かないと感じるとき、神ご自身がよみ(Sheol)にまで下ってくださったことを覚えていてください。何を祈ればいいのかわからないときも、御霊ご自身がことばにならないうめきをもってとりなしてくださることを忘れないでください。
身体を労わる
エリヤが不安に圧倒されていたとき、神はエリヤに食事と休息を与え、ご自身の臨在を現されました。私たちは有限に造られた存在であり、力が尽きたときには回復が必要です。ですから、謙遜とは、責任を果そうと無理を押し通すことではなく、こまめに運動し、しっかりと睡眠をとり、栄養をとり、日光を浴び、医療の助けを求め、休息をとることを自分に許すことです。身体的なことに気を配ることは、些細で無駄なことのように見えるかもしれません。しかし、実際には、自分自身の被造物としての限界を認め、神の備えに信頼するという力強い従順のわざなのです。
外側に目を向ける
絶望は、生存本能のように、苦しむ人のすべてを飲み込み、自分だけを見つめ孤独になろうとさせます。この大きく歪められた内省は、誰かと時間を共有し、互いを労り、ともに過ごすことで、次第に和らいでいきます。誰かに介入してもらうことは良いことです。それは自分自身が愛情を受けるためだけでなく、会話や気配りを通して自ら相手に愛情を示すことも助けになるからです。相手を気遣う小さな行動は、他の人を優先させることで自分だけを見つめようとする強い力への対抗策となります。周囲の人のために祈ったり、励ましの手紙を送ったり、会話の焦点を相手に向けたりするなど、これらはすべて、神と隣人に目を向ける姿勢を取り戻すための解放をもたらします。
習慣がもたらす救い
絶望が私たちの人生を削ぎ落とし、もはや必要最低限のものしか残らないようなとき、その必要最低限のものを救いの一部として大切にしましょう。日々の習慣というものは、どんなに小さなことであっても、秩序をもたらします。朝起きること、洗濯をすること、芝を刈ることなど、単純な作業こそが普段通りの感覚と目的を保つための命綱となります。たとえその行動が機械的に思えても、次にすべきことを思うことは希望を生み出す行動となります。最も小さなことに忠実であることは(ルカ16:10)、私たちの力を回復させ、行動の意味と目的を再確認させ、ありふれた日常を救いへと変えていきます。
被造物の慰め
恐れが大きく迫ってくるときは、神の壮厳さと主権の前にいかに自分が小さいかを思い起こすことで、安らぎが生まれます。神は、私たちを含め、すべての被造物を保っておられます。神がヨブにご自身の性質と主権を現し、空に輝くオリオン座の綱から海の戸に至るまで万物を支えておられることを示されたとき、ヨブの絶望は礼拝へと変わりました。美しい自然の中を歩いたり、星降る夜空を眺めたり、花を植えたり、動物の世話をしたりするとき、被造物の美しさは私たちを慰め、神が自然界を通して私たちに仕えてくださるという視点を持ち直すことができます。
忍耐をもって堅く立つ
暗闇が長く続き、安らぎが訪れないとき、苦しみから希望への移り変わりには忍耐が必要であることを思い出してください。すなわち、時間と信頼が必要だということです。暗闇の緊張の中で生きることは容易ではありません。しかし、弱さと欠乏は、キリストに完全により頼むための必須条件です。神は私たちが主の勝利と復活の力にあずかるだけでなく、キリストの苦難にともにあずかるようにと招いておられます(ピリピ3:10)。よろめきつつも信仰の一歩を踏み出し続ける忍耐こそが、苦難の中にも神があらかじめ備えてくださる良い行いです。
影を恐れてはいけません。終わりがないように感じられたとしても、それは「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださ」るためのものなのです(一ペテロ5:10)。影はさらに暗く深まるかもしれません。しかし、暗闇の力から救い出され、御子のご支配の中に移された者たちを、影が支配することは決してありません(コロサイ1:13)。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

