
神は本当に私を顧みておられるのか?
2026年02月11日(木)
絶望とどのように向き合うか
2026年02月25日(木)深刻な病いの中で望みを見出す
編集者注:これはテーブルトーク誌の「クリスチャンのよくある悩み」というシリーズの第二章の記事です。
息子の5歳の誕生日、私は自宅から960キロも離れたがんセンターで、点滴のプラスチック袋から化学療法の薬が体内へと流れ込むのを見つめていました。当時、稀ながんと闘っていた私は、治験を受けるために夫と三人の幼い子どもたちと離れて数ヶ月を過ごすことになっていました。
私がこの世で抱いていた希望は、大きく揺らいでいました。健康だった日々は失われ、体力も、髪も、先の見える将来も奪われました。本来自分の家族の世話をするはずが、病院の待合室と、輸血と、さまざまな検査と、うたた寝が私の日常となりました。子どもたちの大切な成長の節目を見逃し、ましてやこの先も生きて見届けられるのかも定かではありませんでした。
がんとの戦い、そして治療後の歩みを通して、私はめまぐるしく変化する自分自身の体調に耐えられるだけの希望を必要としていました。神のあわれみと恵みによって、私たちにはすがることのできる、より良い希望が与えられています。それは、私たちの主、救い主イエス・キリストです。ペテロは、あなたや私のように苦難の中にあるクリスチャンに宛てて第一の書簡を書きました。この書簡は、キリストにある私たちの生ける望みは、地上の試練によって揺るがされることなく、栄光に満ちた終わりまで耐え忍ぶことを確信させてくれます。
生ける望み
ペテロは、その書簡を、私たちの生ける望みである福音から始めています。
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。(一ペテロ1:3)
私たちが属しているのは、まだ墓に入ったままの救い主ではありません。キリストは死者の中からよみがえられ、罪と死に対して勝利を宣言されました(一コリ15:54-57)。さらに、キリストの復活は、復活の物語のほんの始まりに過ぎません。キリストは復活の初穂であり、キリストに属する人は永遠に生きるのです。それは、キリストが私たちの生ける望みであられるからです(一コリ15:20-23)。
深刻な病いの影響に苦しむとき、私たちは疲れ果て、落胆してしまいがちです。もう以前のような人生に戻ることはないのだろうと、希望を失うこともあります。そのような暗い日々の中にあるとき、私たちは生ける望みにすがることができます。それは、墓からよみがえられた、私たちの救い主の希望です。私たちに生ける望みがあるのは、生きておられる救い主がいてくださるからです。
揺るがない望み
私たちは、生ける望みによって新しく生まれただけではありません。
さらに神が私たちを新生させ、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです」(一ペテロ1:4-5)。
キリストに属する者は、この世の苦しみの先に、確かな資産を見据えることができます。私たちの肉体を容赦なくむしばむ病いも、その財産に触れることはできません。私たちを圧倒するさまざまな状況も、後にある永遠の完全さや純粋さを損なわせることはできません。何ものにも、神が私たちのために天に蓄えておられるものを脅かすことはできないのです。
では、この朽ちることのない資産を私たちが受け取ることをどのように知ることができるでしょうか? ペテロは、私たちが信仰によって、神の御力に守られていると言っています。つまり、私たち自身の力や、信仰の強さによるものではないということです。私たちはこの資産を神のあわれみによって受け、神の御力によって保ちます。私たちの望みが決して揺るがないのは、私たちを握っておられる神の御手が決して揺るがないからです(ヨハネ10:27-29)。
栄光に満ちた望み
ペテロがこの生ける揺るがない望みについて書いたとき、彼は人生の試練に無関心だったわけではありません。それでも、ペテロは、苦難によって悲しみを覚えるときでさえ、喜ぶようにと私たちを励ましています。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(一ペテロ1:6-7)
神の約束は、私たちの目を一時的な問題から永遠の栄光へと引き上げます。私たちのうちに働く神のみわざゆえに、苦難という試練は、私たちの信仰が真実なものであることを証明します。キリストが再び来られるとき、これらの試練を通して神が私たちのうちに育まれた信仰は、「称賛と栄光と誉れをもたらします」(一ペテロ1:7)。ここでの「栄光」とは、キリストの栄光、あるいはキリストとともに私たちが受ける栄光、あるいはその両方を意味すると考えられます。しかし、キリストとともにある私たちの将来が栄光に満ちたものであることは確かであり、この栄光こそが、今日の苦難の中にあっても喜ぶべき理由なのです。
痛みが私たちをむしばみ、恐れが私たちを圧倒し、肉体の変化や将来の変化に疲れ果ててしまうとき、キリストにある私たちの望みは変わることのない避けどころです。私たちの生ける、揺るがない、栄光に満ちた望みゆえに、私たちはペテロとともにこう告白することができます。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」(一ペテロ1:3)。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

