救いに至る信仰とはどのようなものか
2023年11月13日(木)神の前には何があったのか
2023年11月22日(木)神の名前の意味するところ
モーセは聖なるお方との短い邂逅を経験しましたが、近づけば近づくほど恐れを感じました。モーセは自分に任務を与え派遣する神の声を聞き、恐れが心許なさへと繋がりました。「この任務に遣わされとは、私は、いったい何者なのでしょう」と問い返すモーセに神は「わたしが、あなたとともにいる」(出エジ3:12)と答えられました。神は「私は何者なのでしょう」と問うモーセの質問には答えず、単に「自分が何者なのか心配しなくても良い。わたしがあなたとともにいるから」というようなことを言われました。
「これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。モーセは神に言った。『今、私がイスラエルの子らのところに行き、「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。』」(出エジ3:12-13) これが問題の核心です。モーセはもはや「私は何者か」と問うのではなく「あなたはどなたですか。お名前は何ですか」と聞いています。
リゴニア・ミニストリーズの創成期に「何を成し遂げようとしているのですか。あなたの使命は何ですか。あなたが始めたこのミニストリーの目的は何ですか」と問われました。私は、「クリスチャンが神のことばに根差すよう手助けする、教えに特化した働きです」と答えました。「あなたが教えたいことは一体何なのですか。人々はすでにそれを知っているのではないのですか」と返ってきました。答えは簡単でした。私は「神が誰なのかを教えたいのです」と言いました。「ローマ人への手紙1章18節から25節によれば、神はこの世界のすべての人にはっきりとご自身を現されたので、彼らには弁解の余地がありません。神の一般啓示が彼らの心を突き刺したからです。彼らは神の存在を知っているが、神を憎んでいるのです。」私は続けました。「これは往々にして彼らが神が存在することは知っているけれども、神がどのようなお方なのか、皆目見当もついていないからです。」彼は「それはそうですが、現代を生きるクリスチャンが知らなくてはいけないことは何だとお思いですか」と言いました。私はこう答えました。「クリスチャンは神がどのようなお方なのか知らなくてはなりません。」
現代の私たちの最大の弱点は、神の性質が—そう、教会においてですら—忘れ去られているということだと思うのです。(アメリカ)西海岸にある教会の会員で心理学の博士号を持つ女性が私に連絡してきたことがありました。彼女はとても憤ってこう言いました。「私は毎週日曜日に教会に行きますが、私の教会の牧師は神のご性質を私たちから隠すためにあらゆることをしているように感るのです。彼は、聖書を本当に開いて、聖書に描かれているように神のご性質を宣べ伝えたら、人々は聖なるお方の御前で居心地が悪くなって、教会を去ってしまうことを恐れているのです。」神の御前から隠れようとしたのはモーセが最初ではありませんでした。神から隠れようとすることは、エデンの園で恥を感じて逃げたアダムとエバの時からそうなのです。
ですからモーセは「あなたはどなたですか。あなたのお名前は—そもそもお名前がお有りになるのなら—何ですか」と聞いたのです。神はすでに「あなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブの神」(出エジ3:6参照)と自己開示しておられました。モーセはそれを知っていました。モーセは神の名前を知りたかったのです。
1963年、全国放送のテレビ番組で、デヴィッド・フロストは過激な無神論者として有名なマダリン・マーレー・オヘアをインタビューしました。 フロストは神の存在についてオヘアと討論しました。オヘアがどんどん怒り、いらだちを募らせてきたので、フロストは古典的なアメリカ流の方法、民衆による多数決で討論に決着をつけることにしました。彼はスタジオの聴衆にこう尋ねました。「ここにいる(約30人の聴衆がいた)あなた方の何人が、何らかの神、何らかの崇高な力、自分よりも偉大な何かを信じていますか?」全員が手を挙げました。オヘアは、「教養のない大衆に何を期待しているの。この人たちはまだ知的幼児で、全く成長していないのよ。神という御伽噺と神を信じる文化に洗脳されたままなのよ。」こうして彼女はスタジオの聴衆全員を侮辱し続けました。
彼女がそういうとは思いませんでした。むしろこう言うのではないかと思ったのです。「あなた方は何かしらの超越的存在、自分より大きな力を持った存在を信じていますね。ではお聞きします。あなた方のうち何人がヤハウェ、聖書の神を信じていますか。自分以外に神々があってはならないことを要求する神を。男も女も子どもも永遠に地獄に送り、イエスというおとぎ話を信じないという理由で人々を断罪する神を?」もし質問がより明瞭であったなら、決はどう変わっていたか興味があります。私たちの文化では、神を超越的存在、力、自分よりも大きな存在と言い表すことが一般的です。しかし、この私たちよりも大きな力、とは何のことなのでしょうか。重力ですか。雷ですか。地震ですか。漠然としていて、名前もなく、個性もない力の厄介なところは、第一に、それは非人格的であり、第二に、より重要なことに、それは非道徳的であるということです。このような崇高な力を拝むことには良い面と悪い面とがあります。良い面—罪人にとってのですが—は非人格的非道徳的力は誰に対しても倫理的責任を問うことをしないということです。重力は個人の行動を裁くことはしません。誰かが六階の窓から飛び降りようとも、重力はその人の人格を非難することはありません。重力によっては誰の良心も咎められることはないのです。もしあなたの拝む崇高な力が非人格的で非道徳的なら、それはあなたが好き勝手に生きるための許可を与えるのです。
その反面、この考えの悪い面は、人格を持った神、救い主がいないという事実を意味するということです。雷とどう救済的関係を持つことができるでしょうか。雷は空に大きな音を轟かせますが、その音には内容がありません。啓示もなく、希望も提示しません。雷や重力は罪の赦しを与えることはできません。
モーセに対する神の答えの中に、この非人間的な力とは対照的なものを見ることができます。 現代は(それぞれの信じる偽りの)神の名を「それは『ある』という存在」だというように思いますが、神は「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)と宣言されました。この名前は神の個人的な名前、ヤハウェに関連しています。ですからこの名前を通してご自身について開示しておられることはご自身が人格的存在であられるということです。神は見ることができ、聞くことができ、知ることができ、語ることができるお方です。ご自身の似姿に造られた人間と関係を持つことができます。ご自身の民をエジプトから連れて上ってくださった神です。神にはお名前と過去の御業の歴史があるのです。
何年も前になりますが、私は大学で神学の講義を担当し、神の名前について、学生たちと共に聖書を調べていました。私は神の名前の意味と、それが神のご性質について何を明らかにするかを学生たちにも明らかにしたかったのです。授業の直前、一人の女子学生(メアリーと呼ぶことにしましょう)が、奇妙な、ちょっとぎこちない様子で教室に入ってきました。左手にはダイヤモンドの指輪が燦然としていました。私は「メアリー、婚約したのですか」と聞きました。彼女は奥の部屋にいる男性を指差して、言いました。「はい、ジョンと。」私はまた聞きました。「おめでとう。彼と結婚するということは、彼を愛しているんでしょうね。そう考えても大丈夫ですか。」彼女は「はい」と答えました。
「なぜ彼を愛しているのですか。」
「彼がとってもハンサムだからです。」
「そうだね、彼はとても格好いい。でもビル君だってそうではないですか。彼は今年の学園祭のホームカミング・クイーンをエスコートするほどだよ。彼だってハンサムではないですか。」「ええ、ビルはとってもハンサムです。」
「ジョンの魅力は彼がハンサムであること以外に、何かあるはずですね。」
「ジョンはとっても運動神経がいいんです。」
「あぁ、確かにジョンは運動神経がいい。でもビルは我が校のバスケ部の主将だよ。なぜ君はビルよりジョンを愛しているのかな?」
彼女はだんだん憔悴してきて言いました。
「ジョンはとても知的です。」
「ジョンはとても優秀だ。もっとも、ビルは多分今年の成績トップで首席だろうけど。メアリー、君にとってビル以上にジョンを選ぶ何かがジョンにあるはずだ。あなたの愛情をジョンに向けさせる、ジョンにしかない何かが。なぜあなたはジョンをそこまで愛しているのですか。」
彼女は少しうろたえた様子で、
「私がジョンを愛しているのは…愛しているのは…愛しているのは彼がジョンだからです」と答えました。私はすかさずこう言いました。
「その通りです。そして神に関しても、神が誰なのか、あなたと神との関係や、神との個人的な歴史において神があなたにとって何を意味するのか、その結晶化した本質に焦点を当てたいとき、それはすべて神のお名前に集約されるのですね。」
私は生徒の方を向いて説明しました。
「そうであるから、私たちが神に目を向ける時、神の名前が素晴らしいと知ることができるのです。神の名前において、神はご自身の存在の素晴らしさとご性質の完全性について、さまざまなことを明らかにしておられるのです。だから私たちが古の聖徒たちに、「神について知っていることをすべて教えてください」と尋ねられたら、最終的に彼らは『ヤハウェ—わたしはあるという者』と答えるだろう。」
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。