
16世紀における救済論の改革
2026年07月16日(木)
礼拝における罪の告白とは何か?
2026年07月30日(木)赦しの宣言とは何か
世界で最も非宗教的な人であっても、「神父様、祝福してください。私は罪を犯しました」というローマ・カトリック教会の典型的な言葉なら耳にしたことがあるかもしれません。これは、信者が司祭と向き合うために個室の告解部屋に入るときに口にする言葉で、罪の現実と、そのために必要な恩寵との両方をよく表しています。この後、告解において何が起こるかというと、告白されたさまざまな罪に対して、司祭が悔い改めのために行うべきことを指示し、最後に赦免の宣言がなされます。改革派教会の伝統でもまた、罪を告白し、赦しを受け取ることは重要なこととして扱われますが、そこにはいくつかの重要な違いがあります。
第一の違いは、私たちが誰に罪を告白するかという点です。聖書はこう述べています。「神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」(一テモテ2:5)。これに基づき、罪によって生じた傷を修復できる唯一の方はキリストであり、決して人間である司祭や牧師ではないと私たちは信じます。私たちは、罪を直接神に告白します。そして、私たちの大祭司であるキリスト・イエスの功績にすがります(ヘブル4:14-16)。
第二の違いは、私たちがどこで罪を告白するかです。個室の告解部屋で行われることを、改革派教会では礼拝の「前面」に引き出し、公の礼拝の中心的要素として扱います。何世紀にもわたって、改革派の礼拝式文には、一つの特徴として「きよめ(cleansing)」の部分が含まれていました。例えば、次のような流れです。まず神の御言葉が朗読され、それに応答して会衆が自らの罪を告白し、そして牧師が、キリスト・イエスを信じる人に対して罪の赦しを宣言します。
では、なぜこれを公の礼拝の一部とするのでしょうか。罪の告白は、非常に個人的で私的な事のように感じられることもあります。おそらくあなたも、過ぎた一週間の自分の罪と真正面から向き合うことを礼拝の中で求められたとき、居心地の悪さを覚えたこともあるでしょう。多くの教会は、人々が気まずく感じるのを防ぐため、律法の朗読や罪の告白をすべて礼拝から取り除いてきました。しかし改革派教会は、別の道を選び続けてきました。その理由は、礼拝の本質と深く関係しています。
礼拝とは、神と出会うことであり、罪を持つ民は聖なる神の臨在に入ることはできません。罪を告白し、キリスト・イエスのうちにある義を宣言することによって、福音なしには礼拝を献げることすらできないことを力強く思い起こさせるのです。さらに礼拝は、クリスチャンとして自分は何者であるかという認識を形づくり、堅く確信させるために存在します。私たちはクリスチャンとして、罪人であり、聖徒でもあります。これらの両方の認識が大切です(一ヨハネ1:8-9)。共同体の礼拝において、牧師がキリスト・イエスにある赦しを宣言する瞬間は、私たちが恵みによって救われた罪人であり、神に選ばれた、神の目に尊い存在であるということを再確認させる、心踊るような瞬間なのです。
このことは、ローマ・カトリック教会の理解と改革派教会との間に見られる赦しの理解の第三の違いに繋がります。それは、牧師が赦しを宣告するときに何が起こっているかという点です。牧師は、赦しの宣告の際、何かが起こることを命じているのではなく、ただすでに聖書において真理であることを宣言しているに過ぎません。これとは対照的に、「赦免(absolution、『解放する』を意味するラテン語の “absolvere” に由来する)」は司祭が文字通りその人を罪責から解放する行為を指します。しかし、人には罪を赦す権威はありません(マルコ2:7)。あるのは、罪が赦されていることを宣べ伝える権威だけです(使徒13:38)。この重要な瞬間において、改革派教会の礼拝では、牧師は神に取って代わる者ではなく、神の代弁者として、私たちの赦しと憐れみ深い神の言葉を語るのです。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。このため、多くの改革派教会では、赦しの宣言はシンプルに福音による赦しと希望を明確に示す聖書の一節を朗読する形で行われることがよくあります。私たちが赦しの確認を得るのは、まさに神の御言葉とその約束であるからです。
このことを踏まえると、改革派教会の礼拝において、赦しの宣言は最も重要な頂点の一つであると言えます。罪は私たちを押し沈めますが、福音は私たちを引き上げます(詩篇32:3-5参照)。赦しの宣言は、私たちの希望を燃やし、従順に力を与えます。礼拝は、「あらゆる恵みに満ちた神」に出会うときです(一ペテロ5:10)。この神は、その恵みに値しない反逆者たちに御手を差しのべ、ダビデの言葉を借りるなら、「私の頭を上げる方」となってくださいます(詩篇3:3)。この神は、「怒るのに遅く、恵みとまことに富[んだ]」方です(出エジ34:6)。公の礼拝の中で、この方の心が余すところなく明らかにされるのです。とりわけ、赦しの宣言において最も明確に示されると言えるでしょう。
すでにキリストを信頼している人は、牧師が赦しを宣言する前から、すでに赦されています。その瞬間に、私たちの内側で、あるいは神と私たちとの間で、何かが客観的に変わることはありません。しかし、すでに赦されているとはいえ、私たちはそのことを忘れがちであり、それが疑いや不従順に繋がります。ですから、赦しの宣言は、神の民としての私たちの立場を思い起こさせるために必要です。「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(一ペテロ2:10)。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。