
赦しの宣言とは何か
2026年07月23日(木)礼拝における罪の告白とは何か?
改革派教会の礼拝に参加すると、牧師が罪の告白への導きをすることがあるでしょう。その前に神の律法を読み上げたり、祈ったり、あるいはキリストの血による赦しを宣言したりすることもあります。この罪の告白には、どのような意味があるのでしょうか。この実践の始まりは、どこにあるのでしょうか。そして、より忠実に罪の告白に加わるためには、どうすればよいのでしょうか。
礼拝における罪の告白の意味
ヨハネの手紙第一1章9節は、このように述べています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」 ヨハネが用いている「告白する(confess)」という言葉は、「同じことを言う」という意味があります。つまり、「自分の罪を告白する」ということは、主が私たちの罪について聖書で語っておられることに同意することを意味します。
公同礼拝での罪の告白は、礼拝の中で定められた時間に、牧師がキリストのからだである教会全体を導いて自らの罪を認めるというものです。そして、牧師はキリストにある主のあわれみが与えられるようにと祈ります。
礼拝における罪の告白の始まり
旧約聖書の幕屋や神殿において、主は庭の入り口を東向きにするよう命じられました(出エジ27:13)。この方角が選ばれたのは、アダムとエバが罪に堕落した後、園から東へ追放されたからです(創世3:24)。この入り口は、神に立ち返るようにとイスラエルに呼びかける恵み深い招きでもありました。
礼拝を献げる者が中に入って最初に目にするのは、祭壇でした。幕屋や神殿に入ると、礼拝者は足を止め、いけにえの動物の上に手を置き、自分の罪を告白し、それに伴って祭司がそのいけにえを聖なる神に献げました。この行為は、「血を流すことがなければ、罪の赦しは[ない]」ということを彼らに思い起こさせるものでした(ヘブル9:22; レビ17:11も参照)。
ヘブル人への手紙9章10-22節は、これらのささげ物がいかに真のきよめの力を持っていなかったかを示しています。動物のささげ物と比べて、このように書いてあります。「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」(ヘブル9:14)。
神に近づくときにキリストの血が必要であるということを示すために、多くの改革派の礼拝式文では、罪の告白が公同礼拝の初めの方に置かれています。ジャン・カルヴァンはジュネーブとストラスブールにおけるスイスの会衆に対して、礼拝をこのような祈りの言葉で始めさせました。
私たちの助けは
天地を造られた主の御名にある。(詩篇124:8)
この聖句の後に、公の罪の告白が続きました。カルヴァンはこのように述べています。
実際、良く整えられた教会においてこの習慣が実を結び、主の日毎に牧師は罪の告白を負うことを申し述べて主に赦しを請い求める。(キリスト教綱要3.4.11)
カルヴァンやその他の人々の影響により、この実践は広がりました。『ウェストミンスター礼拝指針(The Westminster Directory of Public Worship)』は、礼拝は「主(その御前に彼らは、今特別な仕方で出ている)の測り知ることのできない偉大さと御権威(みいつ)、彼ら自身の汚れと主にまみゆるに値せぬこと……とを、畏れかしこみつつ認める」ことから始められるべきだと述べています。 さらに、この礼拝指針は、自らの罪を認めるべき多くの方法を具体的に説明しています。私たちは霊的な後継者として、この改革派の実践を受け継いでいるのです。
礼拝における罪の告白の実践
以下は、罪の告白に、より忠実に加わるための三つの適用です。
1. 自分の罪の大きさを認める
私たちはしばしば罪の行為についてのみ考えます。しかしそれよりも重要なのは、誰に対してその罪を犯したかということです。
もしあなたが、私の描いた肖像画に口ひげの落書きを加えたとしても、その罪は大したものではありません。なぜなら、私の描く絵はそもそも下手だからです。しかし、もしあなたがルーヴル美術館に行き、何らかの方法でその同じ口ひげの落書きをレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』に描いたとしたら、それは大変なことになります。同じ行為でも、後者ははるかに重大なこととして取り扱われます。なぜなら、それは傑作を冒涜する行為だからです。
同じように、あらゆる被造物の主に対して罪を犯すことは重大なことです。ダビデは、バテ・シェバに対して姦淫の罪を犯し、その夫に対しては殺人の罪を犯しました。二人とも、神のかたちに造られた人間です。この罪について、ダビデはこう言いました。「私はあなたに ただあなたの前に 罪ある者です」(詩篇51:4)。
2. 自分の罪が共同体的性質を持つことを悲しむ
主の祈りにおいて、私たちはこう祈ります。「私たちの負い目をお赦しください」(マタイ6:12、斜体は筆者による)。私たちはキリストの御霊によって教会に属する人々と一つに結ばれています。私たちの罪は、会衆に影響を及ぼすため、私たちはともに罪を告白しなければなりません。
パウロは言いました。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(一コリ3:16)。この聖句の「あなたがた(you)」は、複数形です。キリストのからだにおける罪は、その性質に反するものです。なぜなら、そこには聖なる神が住んでおられるからです。教会は神の美術館のようであり、私たちを美しくする「絵の具」はキリストの血です(ヘブル10:28-31)。トマス・ワトソンはこう言いました。「悪しき者の罪は神を怒らせ、神の民の罪は神を悲しませる」
3. 自分の罪に対して真に悔やむ
聖書には、イスラエルが自らの罪を告白する多くの場面が記録されています。たとえば、荒野で民が不平を言ったために主が燃える蛇を送られたとき(民数21:7)、あるいは民がエルサレムの城壁の再建のために捕囚から帰還したとき(ネヘミヤ9:1-3)などです。このような記述を読むと、神の民の悔恨の思いが聞こえてくるようです。
あなたの教会では、会衆がそこまでどん底の状態にあるわけではないかもしれません。しかし、主に対する罪は、それがどのようなものであれ、真の悲しみをもたらすべきです。多くの詩篇は、しばしば罪の告白のために読まれ、歌われますが、どれも私たちの背きに対する心からの嘆きを表現しています。このような告白の言語は、教会で常に基本的な言語として語られるべきです。マルティン・ルターはこう言っています。「したがって、私があなたがたに罪の告白を勧めるとき、私はあなたがたにクリスチャンであることを勧めています」
1 ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要改訳版 第3篇』渡辺信夫訳、新教出版社、2008年、116頁。
2 松谷好明『ウェストミンスター礼拝指針 そのテキストとコンテキスト』一麦出版社、2011年、177-178頁。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。