不安の解毒剤
2022年07月30日(木)
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不安とは何か?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「私たちの抱える不安」というシリーズの第二章の記事です。

今日、世の中では不安が募るばかりのようです。ある保健機関は「不安障害は、米国で最も一般的な精神疾患である」と発表しています。ここ数年においては、10代の若者の間でも不安に悩まされるケースが増え続けているという研究結果も出ています。ちょうど2年前、世界最大級の書籍小売業者であるバーンズ&ノーブル社は、不安に関する書籍の売り上げが急上昇し、全体で25%増加したと発表しました。これらはすべて、最近のパンデミックの発生前のことです。当然、この一年で人々の不安はさらに増大したでしょう。

幼少期の記憶に、誰かが私の父について言った言葉が残っています。「本当に、彼は心配性だね。」ただ軽い気持ちで、冗談まじりに発せられた言葉です。私の父は、確かに心配性でした。祖父が家族経営の事業を売却した後、父は一から自分の事業を立ち上げました。多くの時間と神経をすり減らし、難しく大変な道のりでした。父の事業は大いに成功しましたが、立ち上げの時期は本当にストレスの多い数年間でした。それに加えて、6人の子供たちへの心づかいもありました。私自身、牧師を勤めながら6人の子供を育てていると、この父にしてこの息子あり、と感じます。私も心配ごとと戦っています。子供の心配、信徒の心配、そして自分の責任の重さに対する心配との戦いです。

聖書を見ると、不安は深刻な問題であると書かれています。イエスは弟子たちに命じられました。「自分のいのちのことで心配したり…するのはやめなさい」(マタイ6:25)。パウロも同じように書いています。「何も思い煩わないで…」(ピリピ4:6)。これらの言葉は「きっとすべて上手くいくから大丈夫」と慰めるためのアドバイスなどではありません。これは、聖書に記されている命令です。つまり、これに背くことは罪なのです。

しかし、聖書はすべての不安が罪であるとは教えていません。使徒パウロは、牧師としての働きの中で、正しい類の不安を経験しました。彼はコリントの教会に宛てた手紙で、多くの困難を並べた最後に「日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります」と記しました(二コリ11:28)。ここで「心づかい」と訳されているギリシャ語の名詞は「思い煩う」という動詞からきており、パウロが上述のピリピ人への手紙4章6節で使っている言葉と同じです。しかし、パウロがコリントの人々に語ったように、彼が抱いているのは罪深い不安ではなく、敬虔な、愛に満ちた不安なのです。

確かに、聖書には二種類の対照的な不安が記されています。正しい不安と、神のみこころに反する不安です。事実、新約聖書では、同じギリシャ語の言葉が両方のタイプの不安に使われています。パウロは、ピリピ人への手紙4章6節の(マタイ6:25でも使われている)ギリシャ語の動詞を、キリストのからだは互いに「配慮」し合い(または「不安」「心づかい」)、一致するべきだ、という箇所にも用いています(一コリ12:25)。同じように、パウロがテモテをピリピの教会に推薦するとき、人々のことを彼ほど「真実に…心配している」(または「不安に思う」)同労者はいないと伝えています(ピリピ2:20)。

罪深い不安のほとんどは、正しい心配と結びついています。仕事にしっかり取り組み、家族を支え、子供たちを養い、神があなたに与えられた務めを全うすることは、正しいことです。これらは当然配慮すべきことでしょう。問題は、いつこのような正しい配慮が、罪深いものに変わってしまうのか、ということです。敬虔な「配慮」は、いつ不敬虔な「心配」になってしまうのでしょうか。

ある裁判官がポルノについて言及した有名な言葉があります。この言葉は、ある意味で、不安についても当てはまると言えるかもしれません。彼は、ポルノを定義することはできないが、「それを見れば分かる」と述べたのです。私たちも罪深い心配または不安が何なのか、知っているはずです。なぜなら実際に経験したことがあるからです。その状態に陥るときも分かるはずです — 手に汗がにじみ、心臓が高鳴り、気が休まらず、落ち着かず、眠れなくなるなど、その他にも症状があるでしょう。では、罪深い不安は、なぜ罪なのでしょうか。

この疑問に答えるために、まずはルカの福音書10章38-42節の、イエス、マリア、そしてマルタの物語から始めるのが良いでしょう。イエスは、マリアとマルタの家に招かれていました。マルタは多くの来客をもてなすのに忙しくしています。食事の用意をしていたのでしょうか。一方で、マリアは、イエスの足もとに座って、主の教えに聞き入っていました。マルタはそれに憤慨し、マリアに手伝いをするように言ってくださいと、イエスに訴えました。しかし、イエスはこう答えます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(41-42節)。マルタは「良いこと」で頭がいっぱいになり、「最も良いこと」が見えなくなっていました。イエスのために仕えようと一生懸命になるあまり、肝心のイエスから焦点が外れていたのです。

これが、要するに罪深い不安の簡潔なまとめです。一見正当な心配ごとで頭がいっぱいになり、イエスから目を離してしまうことです。言い方を変えれば、罪深い不安は、キリストよりもこの世の配慮や責任を重視します。心配ごとが最優先され、キリストが二の次になってしまうのです。

チャールズ・スポルジョンは、マルタに関してこのように書きました。「彼女の落ち度は、主に仕えたことではない。仕える者の姿勢は、どのクリスチャンにもふさわしいだろう。彼女の落ち度は、『いろいろなもてなしのために心が落ち着か』なくなってしまったこと、その結果イエスを忘れ、仕えることがすべてになってしまったことである。」40節で「心が落ち着かず」と訳されているギリシャ語の動詞は、誰かまたは何かから引き離され、他の何かに注意が向けられることを意味します。また、あるギリシャ語の辞書には「非常に忙しくなり、負担が大きくなる」という意味が記されています。

罪深い心配は、キリストから引き離され、過度の負担を負った結果です。だからこそ、パウロはピリピの信徒たちにこう勧めました。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(4:6-7)。この世の心配ごとによる負担が増すとき、祈りと願いをもって、そして感謝をもって、神に目を向けましょう。そうすれば、不安を乗り越え、神の与えてくださる平安を知ることができます。

罪深い心配は、間違ったものを求め、それに仕えたことにより、キリストから目を外した結果です。心配についてイエスが話しておられる聖書のみことばで、最もよく知られている箇所はこれです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)。問題は、私たちがしばしば、神の国よりも自分の小さな王国を建て上げることばかりを考えていることです。イエスが言われたように、神と富とに仕えることは不可能です(24節)。この世のいかなるものにも、神と同時に仕えることはできません。そうしようとするなら、必ず罪深い不安が生じてしまいます。神に背を向け、さらに世俗化していくこの時代で、その不安がますます増えていくのは無理もありません。

罪深い不安は、神に信頼すべきときにそれを怠った結果でもあります。イエスは、心配する人を「信仰の薄い人たちよ」と呼びました(マタイ6:30)。私たちは信仰によって救われ、信仰によって生きています。救いは、私たちの信仰の強さで決まるのではありません。信仰の対象によって決まります。それでも、常に信仰にあって成長することはできます。イエスは、鳥を見て、神がいかに鳥たちを大切に養っておられるかを見なさいと言われます。そして、あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではないかと弟子たちに思い起こさせておられます(26節)。

これは、神が私たちの必要を備えてくれるのを何もせずにじっと待つべきだという意味ではありません。鳥たちは神が食べ物を落としてくださるのを、ただ口をあんぐり開けて待っているでしょうか。私たちは、生きていくうえで仕事に召されています。「働きたくない者は食べるな」とまで言われています(二テサ3:10)。一生懸命に働くことは、神が人間を最大限に生かすために創造された方法です。私たちが本来働くべき態度で働いていないときほど、心配は生まれてくるものなのです。

また、信仰によって生きることは、明日の計画を立てるべきではないという意味ではありません。イエスは、明日のことは心配しなくてよい、今日の仕事に集中しなさい、と言われます。では明日の計画を立てるべきではないでしょうか?そうではありません。神は私たちが計画を立てることを良しとされます。特に、将来のために備える計画です。ヨセフが来るべき飢饉に備えたことは、良い例です(創世41; 以下も参照, 箴言6:6-8; 16:9; ルカ14:28-32)。明日のことを心配してはいけない、というのは、今日神に召されたことに忠実であれ、という召しです。そしてそれは、主権と恵みに満ちた神の御手のうちに、主が将来を握ってくださっていると知って初めてできるのです。

「必要なことは一つだけです」(ルカ10:42)。あまりに忙しく、気を取られてばかりの世の中で、この言葉は本当に大切なことを思い出させてくれます。神はご自分の民に、様々な働き、様々な召しを明確に与えられます。しかし、必要なことは一つだけなのです。詩篇の作者はこのように記しました。「一つのことを私はに願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り の家に住むことを。の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために」(詩篇27:4)。パウロはこのように表現しています。「私は、自分がすでに捕らえられたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その章をいただくために、目標を目指して走っているのです」(ピリピ3:13-14)。忙しい日々の中でも、キリストに目を向け、キリストを求め、御国を求めようではありませんか。そうすれば、神は平安を与えてくださいます。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ウィリアム・バークリー
ウィリアム・バークリー
ウィリアム・バークリー博士は、Sovereign Grace長老教会の主任牧師であり、ノースカロライナ州シャーロットの改革派神学校(Reformed Theological Seminary)の新約聖書学の非常勤教授である。著作に『The Secret of Contentment』および『Gospel Clarity』がある。