不安とは何か?
2022年08月02日(木)
不安がもたらす影響 
2022年08月10日(木)
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不安の要因となるもの

編集者注:これはテーブルトーク誌の「私たちの抱える不安」というシリーズの第三章の記事です。

「あなたはかなりの不安を抱えていますね。自分では気付いていないようですが」ある女性からこのように言われてから、もうすぐ二年が経ちます。私はそのとき、笑顔を見せながらも、頭の中では傲慢な思いがありました。「一体この人は何を言っているのだろう。私に不安などないのに」このような指摘は誰からも受けたことがなかったからです。私は彼女の心配について、祈りつつよく考えることを約束しました。それから約一ヶ月後、教会の長老たちから緊急のサバティカル(長期有給休暇)が許可されたのです。女性の言ったことは、両方当たっていました。私は確かにかなりの不安を抱えていましたし、そのことに自分で気付いていなかったのです。

私は、自分の不安が影響を及ぼしていたのは、自分だけではないことを知りました。周囲の人との接し方に影響したことによって、程度の差こそあれ、教会スタッフたちにも悪影響を及ぼしていました。私はスタッフたちに謝罪するためにかなりの時間を費やし、赦しを請いました。誰もが寛容に受け入れてくれたことは、決して忘れられません。私のサバティカルが終わるころには、私はもはや自分が不安を抱えているかどうかなど、問うことはしなくなりました。その代わりに、「私の不安はどこから来るのか?」という、非常に重要な問いかけをするようになっていました。

正直に言うと、私はこの問いかけを無視したいと思っていました。心の底では、イエスこそが私の不安に対する究極の解決策であるとわかっていました。私をぼろぼろにしている不安を、イエスなら打ち砕いてくださると信じていましたし、今すぐにでもその鉄球を振り回してくださらないだろうかと願っていました。しかし、何に向かって振り回すのでしょうか?現在、状況は大きく変わりました。今でも時々不安と戦うことがありますが、そのような状態を自覚し、キリストへの信仰によって不安を解消する方法を学びました。不安に向き合いたいと願っている人にとって、その要因を理解することは重要なことです。

不安は、簡単に定義できません。不安には心配、緊張、懸念、そして恐れが含まれています。時に、認識すらできない要素から不安が生じることもあります。このような場合、不安は危険や不幸、損失などを予期することと結びついています。聖書の中にも、不安は度々出てきます。サウルの父はサウルがどこにいるのかわからず、不安になりました(一サム10:2)。詩篇の作者は「労苦 [訳注:英 anxious toil] の糧を食べ」ることについて、比喩的に表現しています(詩篇127:2)。イザヤは「心騒ぐ者たち」に対して語りかけています(イザヤ35:4)。ダニエルは、心が自分のうちで悩んでいると言っています(ダニエル7:15)。マルタは「いろいろなことを思い煩って、心を乱して」いました(ルカ10:41)。使徒パウロでさえ、不安を経験しています(二コリ11:28)。ですから、4,000万人のアメリカ人が日常的に不安と戦っているというのも、当然のことでしょう。誰もが時として一定の不安に悩まされているのです。これは、避けられないことです。

究極的に言うと、不安の要因は人間の堕落です。アダムとエバが禁じられた木の実を食べ、この世界を罪と悲惨の中に突き落としたとき、真っ先に彼らが感じたのは恐れでした(創世3:10)。この恐れは、当然ながら、不安を形成する要素の一つです。かつて完璧だった神と人との関係が傷付いた瞬間、アダムとエバにあった安心感と平和は消えてしまいました。将来がどうなるかもわかりません。彼らの罪に対して、神がどのように対処されるかもわかりません。禁じられた木の実を食べるときは、必ず死ぬと、神は言われたのです(2:17)。彼らはその意味すら完全に理解していなかったでしょう。いずれにせよ、彼は初めて恐れという感情を味わっていました。不安を抱えたのです。堕落は、不安の一次的要因です。

池に石を投げ入れると波紋が広がるように、堕落から溢れ出す不安に付随する、様々な波紋が広がります。これを不安の二次的要因と呼ぶことにしましょう。堕落した人間は、様々な方法、様々な度合いで、これらの二次的要因の影響を受けています。不安の二次的要因の一つは、堕落が人間の生化学的構成に与える影響です。アメリカ人の約18%は、脳内の化学的不均衡が要因で不安に苦しんでいます。彼らは臨床的に不安障害と診断され、治療と薬物療法がほとんどの場合必要となります。

悲しいことに、このような苦境にあるクリスチャンは、しばしば「もっと祈りなさい」とか「もっと聖書を読みなさい」と言われがちです。私は、このような(善意の)アドバイスゆえに、自分が二流市民であるかのように感じている教会員たちと共に心を痛めてきました。従って、不安障害と他の慢性疾患が似ている点を認識することは非常に重要です。本人たちが力を尽くしていないことが、問題ではないのです。問題は時に、本人の手の届かないところにあります。車椅子を使っている人に対して、私たちは「もっと祈りなさい」とは言いません。それと同じように、不安障害と診断された人に対しても、そのような言葉をかけるべきではないのです。彼らのような尊い人々には、思いやりと医療的介入が必要です。中身のないアドバイスなどではありません。

不安の要因となるその他の二次的要因には、性格、人生経験、ストレス負荷の多い状況などがあります。神に与えられたあなたの性格の中には、他の人より落ち込みやすい一面があるかもしれません。また、幼少期に起きた何らかの出来事が要因で不安を抱えているというケースもあります。もし、あなたが子供のころに父親もしくは母親が失職したという経験があるなら、あなたが会社で上司に呼び出される度に過剰に不安を覚える傾向があっても不思議ではありません。不安の二次的要因は様々で、複雑なのです。

間違いなく、不安の最も強力な二次的要因の一つは罪です。罪を犯すとき、私たちは罪悪感を持ち、恥を感じます。どのような結果が起こるかと考えると不安になります。ヤコブが、自分が(二度も)欺いたエサウ本人が自分のもとに向かっていると知ったときの恐怖と悲嘆を考えてみてください(創世32:7)。ダビデ王は、告白していない罪から生じる内なる深いうめきについて語っています(詩篇32:3)。ヤコブは私たちに「あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」と述べています(ヤコブ5:16)。罪に関係する不安からの解放こそ、私たちの癒しの一部であることは確かです。そして良い知らせは、私たちの仕える恵みの神は、いつでも私たちを赦し、キリストにあって私たちを新しくしてくださる準備が整っているということです。

もう一つ、重要な不安の二次的要因は、信仰の弱さです。マタイの福音書6章25-34節でイエスが教えておられることについて考えてみましょう。イエスは、私たちの基本的な必要(食べ物や衣服)について心配してはならないと言われます。ここで私たちの価値が、鳥の価値と比較されていることに注目しましょう(26節)。私たちは、自分が神にとって価値ある存在であると信じられなければ、神が自分を養ってくださるかどうか不安になるのです。イエスはまた、心配しても自分のいのちを伸ばすことはできない、と言われます(27節)。死ぬときに何が起こるのか知らなければ、私たちは避けることのできない死に対して、当然不安な思いを抱くでしょう。そして、イエスは着る物についても言及されます(28節)。どうやら、自分の外見を気にするのは現代に始まったことではないようです。最後に、イエスはこれら三つの不安の要因を一つに結びつけて、こう言われます。「信仰の薄い人たちよ」(30節)。

不安を抱えている人は、とにかく、神の主権と善良と誠実に対する信仰を強める必要があるかもしれません。私たちが神にとってどれほど価値のある存在か、そのことを十字架がいかに物語っているかについて、時間をかけてよくよく考えなければならないでしょう。イエスは、強い信仰を持つことと、(非臨床的な)不安の少なさには、明確な関係性があることを教えておられます。しかし同時に、イエスは、私たちが永遠に不安を消し去るほどの信仰を持つことができるとは教えておられません。ですから、強い信仰と不安がないことを同一視しないように注意しましょう。使徒パウロは、おそらく歴史上最も信仰の強い人間でしたが、すでに述べたように、不安を経験しています。だからといって、不安に対して何も対処するすべはないと悲観するべきではありません。不安の二次的要因について確認してきたのですから、今度は私たちがより強い信仰を持つことでどのように変わるのかということを考える必要があります。私の場合、不安は、主にプライドと、手に負えない仕事量の危険な組み合わせから生じていました。私はあまりにも多くのことをやろうとし、助けを求めることもせず、とても背負うこともできないほどの責任を抱えて押し潰されていました。私にとって、キリストへの信仰を強めることは、仕事の負担を減らすことを意味していました。

不安の一次的要因を理解し、二次的要因を確認することは、自由に近づくために欠かせない重要なステップです。これらのことを意識すると、役に立つことが二つあります。第一に、不安を抱えている人に対して、親切に、思いやりを持ち、忍耐強く接することができるようになります。不安が実に複雑な要因から生まれることを知っていれば、相手に単純な解決策を持ちかけることもなくなるでしょう。また、不安を抱えている人の心配ごとや恐怖を不容易に大きくするのではなく、彼らを助けることができるようになります。第二に、不安の一次的要因を理解し、二次的要因を確認することは、希望を持つための訓練です。

主にとって不可能なことはありません(創世18:14)。神にはどんなこともできます(マタイ19:26)。そして、私たちを強くしてくださる方によって、私たちはどんなことでもできるのです(ピリピ4:13)。主は恵み深く、また力強く私たちを助け、不安に対処し、不安を乗り越える力をくださいます。それによって、私を含め、実に多くのクリスチャンがこれらのみことばの真理をさらに確信するようになりました。あなたも不安と戦っていますか?もしそうなら、あなたに二つの真実を述べましょう。あなたには助けが必要であり、その助けは主から来るのです(詩篇121:2)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

マット・ライマン
マット・ライマン
マット・ライマン牧師は、ミネソタ州ミネアポリスで教会開拓の働きをしている。以前は、フロリダ州オーランドのUniversity Presbyterian Churchで主任牧師を務めていた。